4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2548)

 仏教では私の身体、存在は喩(たと)えて言ってみると、大海に波立つ一つの波みたいな存在だという。海から起こり、海に帰っていくあり方をしているのです。また別のたとえでは地球を含めて宇宙空間に分子・原子が集まって一時的にできている存在が、私という存在の「在り方」だということです(ガンジス河の砂の数の因や縁が和合して私という存在は有らしめられている)。しかも、そのあり方がそれ自身が独立して他と切り離してあるのではなく、相互に関連して、切っても切れない関係(縁起の法に依っている)のあり方をしているというのです。
しかしながら私の意識はそのことが分からず「私は独立した存在だ」と得意がっています(人の世話になんかなってない!)。そして他からの忠告を聞く耳をなかなか持ちません。特に私の意識は「われ思うゆえにわれあり」と分別を頼りにして実体的に確かなものとしてあると考えています。そして私の意識は私の周囲の事象を自分と切り離して、向こう側に分別(対象化)して見ています。意識はつかみ所のない透明な存在のような在り方をしているものですから、周りのものとは、無関係、独立した、自立した存在のように思っているのです。
この意識は人間としての誕生、すなわち身体の誕生よりは後からこの世に出てきました。物心がついて、自我意識が出来た頃から出現して、いつの間にか私の身体の主人公のように振舞い始めました。私の意識は眠っているときは活動を一時的に中止しているようですが、目覚めるとすぐに元のように活動を始めます。自我意識は恒常審慮(つねに、つまびらかに、おもんばかる)といって無意識の領域(仏教では末那識、第七識:我痴、我見、我慢、我愛)と連携して24時間寝ずに自我の維持に努めています。
私の意識のなかで、記憶の領域は見聞したものや知識を積み重ねていき、その記憶は継続されていきますから、変わらない私が実体的に存在するかのように思っています。そして生物学・医学的な知見によると、私の意識の中枢は主に脳の神経組織に関係することがわかってきています。
私自身はいろんなモノによって構成され、生かされている、支えられているのです。自分では気づかないよういろいろなものに支えられていることを“おかげさま”と表現しています。しかし、自我意識は主人公として傲慢になって、お陰様という世界が分からず、見える表面的なところだけを見て、分かったつもりになり、独立者として、人の世話になってない、と傲慢(ごうまん)に振る舞う傾向があります。
私達の「在り方は」は大きな世界、時間的・空間的にはかることを超えた、無数、無量のもの中で、周囲のものとはきっても切れない一体的なあり方をしています。仏教の教える依正不二とは、正とは主体、依とは周囲の環境、主体と環境はきってもきれない関係にあることを示します。相互に関連した密接なあり方を法、規範といい、南無阿弥陀仏(阿弥陀佛:アミダ、無量のもの、空間的・時間的に量ることを超えた。南無:帰依、依っている)といいます。
この世の森羅万象は空間的、時間的にはかることを超えた、無数、無量の因や縁(阿弥陀仏)に依ったあり方を普遍的にしているのです。自然なあり方、法にそったあり方、そのことを阿弥陀仏に依った、帰依するあり方、南無阿弥陀仏ということです。
傲慢になっている自我意識へ、本来のあり方に気づきなさい、法に依れ、大きな世界に帰れ、阿弥陀仏の世界にもどれ、来たれ、自然な有り様に気付きなさい、と働きかけているのです。南無阿弥陀仏とはそういう呼びかけなのです。本来的なあり方をしてないと、どこかで軋(きし)みが生じます。不自然なあり方をしているものは、結局は本来的なあり方に連れ戻されるのです。
本来の姿に戻れ(南無阿弥陀仏、阿弥陀仏の世界に帰れ)。あなたはいろいろな因や縁で、たまたまあなたという姿をとっているのです。眼に見えないいろいろなお陰や、ご苦労、ご配慮の賜物で今のあなたがあるのよ。自然(じねん)の法(法則・原則)の世界は「色が無い、形が無い、言葉で表現できない世界」(法性法身)です。法の世界から見ると、法に逆らって、得意がっている、智慧の無い存在・私。 智慧が無いのであっちにぶっつかり、こっちにぶっつかり、同じ過ちを繰り返している(本来的なあり方をしてないためのひずみの症状)私を大悲されて、大きな世界があるということ、智慧の世界があるということをなんとか知らせたい、と働きかけて止まないのです。
普遍的な法、ガンジス河の砂の数の因や縁によっている、すなわち阿弥陀仏に依っている、それを南無阿弥陀仏という。その南無阿弥陀仏という法が長年の修行・思考の末に、分別を頼りに生きている人間(私)に本来のあり方の事実、真実に気づかせるために仏の方(法蔵菩薩)が熟慮に熟慮を重ねて、汝、小さなカラを出て、大きな世界に来たれ(南無阿弥陀仏)と言う本願を起こした。 南無阿弥陀仏という名を阿弥陀仏の救いを成就・実現する行として選ばれて、私たちのために南無阿弥陀仏という具体的な仏の姿(方便法身)となって、人間に知らせよう、分かってもらおうとして、仏が出現したのです。
仏、すなわち法が衆生の上に至り届いて、仏願の生起本末を聞きて私がうなずく、私が智慧をいただき(信心)仏の名、南無阿弥陀仏を称える。感謝と懺悔(さんげ)で念仏をするという私の事実のところに、仏の大悲大慈を成就して、仏が仏(自利利他円満)であることを実現したのです。
仏の世界を、阿弥陀仏いうことも可能ですが、南無阿弥陀仏と表現することで擬人的な阿弥陀仏の奴隷になるような危険性をなくすために南無阿弥陀仏と言う法、規範、でしめされたのでしょう(蓮如上人の御一代聞書、69:---当流には「木像よりは絵像、絵像よりは名号(南無阿弥陀仏)」というなり、に通じます)。
人間の意識は狭い局所的なところしか見えてないのに、自分の愚かさを認めたくないのです。人間の意識の科学的な合理主義による思考の結果が、現代の見た目には便利な快適な社会を作り、人間の欲や思いを実現することに部分的に成果を上げているので慢心に陥っているのです。人間の思考方法自体が外側ばかり見て、自分の内面が見えにくくなるという、分別の思考方法(対象論理)は弱点を持っているのです。
 南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏の本願を起こし、南無阿弥陀仏の名となって、私の上に来たって南無阿弥陀仏という私の念仏となる。ここに南無阿弥陀仏の本願が成就したのです。

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