5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2549

  あらためて考えてみると私は無意識のうちにこの世、人生に深い不信感を持って生きてきたということです。どうしてかというと、自分自身で「何が信用できるのか?」と問われれば、信用することができ、頼りになるのは「私の頭、意識だけ」でした、ということです。
私の思いは「私の意識」を一番頼りにし、尊重して、その意識の気に入ることに尽力することを心がけてきました。小賢しさで、善・悪、損・得、勝・負を考え、役に立ちそうなもの、利用できるものをひたすら集めることに熱心でした。信国淳先生はこのことを「自身を供養し恭敬する心をもって我が心として生きている」と表現されています。しかし、この生き方は全体のあるがままの姿、道理がわかってない、智慧が無いから「迷い」である指摘されています。 
 「迷い」と言われても、「私は間違いない」と聞く耳を持たない「私の思い」は、世の中の利用できる物は何でも利用し尽くしてでも、自分の思いを通したい、満足、幸せ、安定を追い求め生きてきたのでした。福岡で地震があろうと、スマトラ島で地震があろうと、自分に縁のある人が困難に直面してないなら、つい“よそ事”になってしまいします。
節分の時に豆まきの言葉が「福は内、鬼は外」ですが。外に行った鬼はどうしているのでしょうか? 自分に関係ない人の所に行ってくれたら、どんな悪さをしようと私には関係ないことです。何も考えずに、無関心、当たり前、当然として、自分のことしか考えてない自分でした。「福は内、鬼は外」と平気でいう私こそ「鬼」そのものですね。「わたる世間はオニばかり」とはこのことでしょう。
常識だ、当然が、当たり前、と思っている私の意識、思いの在り方こそ深い闇(世の中オニばかり!、人生不信で、内面に深い不安を持っている)をかかえていたのでした。私の家族や親しい人でさえ、いざというときは大丈夫かな、頼りになるかな、という私の思いです。(不安や死とか悪い事象や、暗い所は出来るだけ見ないように、考えないようにして生きてきたのでした)
自分では確かだと思っている私の心(意識)も、諸行無常の道理で縁次第ではどうにでも変化して行くのです。あたかも浮き草の如くその日その日の気分次第、思い次第であっちに流されこっちへ流されフラフラしながら生きているのです。
蓮如上人の御一代聞書(97)に「世間にて時宜(じぎ)しかるべきは善き人なりといえども、信なくば心をおくべきなり、たよりにもならぬなり、例(たと)え片目つぶれ腰をひき候うようなる者なりとも、信心あらん人をば頼もしく思うべきなり」と出ています。
私の心の闇を知らせてくれたのは仏の智慧(光明無量)であります。この世の森羅万象は時間的、空間的に私と無関係に存在するのではなく、縁起の法が教えるように関連しているのです。そして道理に即してない在り方、不自然な在り方にとらわれたり、考え違いをしていると、そこにひずみやきしみが生じてくるのです。ひずみやきしみは私を本来のあり方に連れ戻すはたらきの表れです。
さらに一歩進めると、森羅万象は私と密接な関連を持っているのです、関連という以上に、私を構成し、支え,生かしてくれているのでした。「全ての存在は私を生かしてくれ、私に何かを教えよう、知らせようとして存在する」、ということが本来のあり方だったのです。「草木国土悉皆成仏」(法華経薬草喩品)、「仏」とは私を目覚めさせ、救うはたらき展開する存在を仏と名付けているのです。「成仏」とは仏になる、仏になるとは私と無関係に向こう側で仏になるのではなく、私を教える存在、私を救う存在として機能を成就するところに本当の成仏があるのです。私が救われる、目覚めることがなければ仏は仏たり得ないのです。この世の森羅万象すなわち「草木国土」が私を救う、教える存在として働いている、と受けとめて、念仏することが出来た時、仏は仏(自利利他円満)として成就した、成仏が完成したのです。
精神科医のフランクル(オーストリア生まれの米国人、ユダヤ人、「夜と霧」の著者)は、通常われわれは自分を中心にして人生の意味を問い、人生から何かを期待しようとする。自己中心から世界を見る見方である。この見方では強制収容所のような絶望的な状況では耐えることができない。期待すべきものは何もなく、あるのは絶望だけだからである。この思考はコペルニクス的転回が必要である。自己中心的に人生に何を期待できるかを問うのではなくて、人生から自己を問うのでなくてはならない、と言われています。
細川巌先生は「人生を往生浄土の縁として生きる」と表現されています。浄土の光をこうむる場で、仏の智慧の光に照らされながら、人生のいろんな出来事が、私を育て、成熟させようとしてくれているのです。私は本来の自然なあり方、道理に反抗して自分の「我」を通そうとします。いや、仏を無視して、時には踏みにじっているのです、南無阿弥陀仏。そんな私に「汝、小さなカラを出て、大きな世界を生きよ(南無阿弥陀仏)」と呼びかけられ、願われ、衆生の信心となろう、念仏となろう、はたらきかけて止まないのです。
日々の生活で自分の意思に沿わない事象がでて来て、困惑する時、対象化してどうしたら除けるか、避けることが出来るか、先送りすることが出来るか、と考えがちでありますが。仏法ではこれがあなたの担うべき課題です、これはあなたが人間として成長・成熟する機会として与えられたことです、と念仏で受け取って行くことを教えるのです。
念仏の教えを受けとめ、一歩前を歩かれた先輩方は光に照らされ、目覚めて、今まで見えなかった世界、すなわち「もったいない」「ありがたい」「おかげさま」「ご恩」等の世界を感得されて感動して念仏されているのです。そして「私は、この自分に与えられているいのちというものの深さというか、尊さというか、すばらしさというか、そういうものを讃嘆しないではいられなくなるとともに、生まれてきてよかったなあと、日々の生活を喜ばせてもらうことになっておるんであります。」と表白されています。
「渡る世間は仏(菩薩)ばかり」と仏法の教える人生の物語を生きて来られたのでした。ここに人生への厚い信頼、心豊かな満ち足りた安心の世界が展開しているのでした。
われわれは人間として生きること自体、人生をどう受け取っているかと「問われている」ことであり、生きていくことは、教えられ、育てられていることへ、応えることにほかならないのです。日々われわれは問われている。その要求に応じて,自らの仕事を、使命を遂行することが、私の生きる意味なのです。
私は今、人類の歴史の最先端にあって、迫り来る老いと死(生死の課題)に、どう応えるかが問われているのです。

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