6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2549

 脳死からの移植を増やそうと、臓器移植法の改正案作りを自民、公明両党の国会議員による検討会が進められています。「脳死は一律に人の死」を前提に、家族が同意すれば臓器を提供できるよう要件を大幅に緩和する改正案の提出を目指しているようです。法施行から7年半たっても増えない提供に悩む患者団体は歓迎しています。一方で、本人の提供意思が不可欠とする現行法の理念を覆すと、反対意見も強いようです。
 日本移植者協議会など6つの患者・家族団体の代表が、厚生労働省に法改正を求める要望書を提出しました。なかで「海外では助かる命が日本では助かっていないということを分かってほしい」……。同協議会の会長は何度となく繰り返してきた訴えをされています。
 97年10月の法施行後に実施された脳死移植は36例。年平均5件です。国内での移植をあきらめ渡航する患者のニュースを新聞で読むことがあります。
 提供が増えない大きな要因は、脳死判定と臓器提供には本人や家族の同意が必要と、移植法が厳しい条件を付けていること。このため検討会の原案は(1)脳死判定に本人、家族の承諾は不要(2)臓器摘出は本人が拒否していなければ、年齢に関係なく家族の承諾で可能……とした(小児での移植を推進するため)。 これなら、提供数の増加が見込める。現在は意思表示できない15歳未満からも摘出でき、大人の大きな心臓が移植できない小児患者も助けられるようになる……。と患者団体は期待をしています。
 賛成論の一方で、反対・慎重論もだされています。「脳死は人の死ではない」(小松美彦:東京海洋大教授)、「虐待で脳死となった小児を判別する仕組みが不十分。小児の脳死診断例も極めて少ない」(日本小児科学会)。 作家の中島みちさんは「法の基本理念を昔に戻すなど、暴挙と考える」と批判、移植法成立に至る議論や修正は何だったのか、と指摘されています。
 現行の法律は反対・慎重論を考慮し、提供意思を表明していた人に限り摘出できると修
正した法案が提出され、衆院は通過し、参院は、臓器提供する場合のみ脳死を死とさらに修正して、97年6月成立したのでした。法成立当時、推進派は「これでは移植禁止法だ」と批判したが、中島さんは「相対する意見が歩み寄れる道を、何とか探り当てたのが現行法。人権擁護の上から世界で一番進んでいる」といわれています。
 自身も肝移植に関係された河野太郎議員は「原案が最も良いと思う」としつつも、改正を優先するためには、ある程度の修正を受け入れる考えを示していると言うことです。
 以上は脳死による、臓器移植法に関しての最近のメデイアで報道された動きです。
 人間の理知分別は、自分が自己満足するためには他の全てを利用しようという知でしかないのでしょう。患者団体の「外国並みの医療を」「世間並みの幸せを」という訴えを聞くと、それに正面から逆らうことの出来ない気持ちになります。一方「人権擁護の上から世界で一番進んでいる」と聞くとやっぱりそうかという気持ちになります。
人間の理知の利用根性の根深さは、科学的理知という合理主義(主義についての面白いコメントがありました。平成17年5月8日:日本経済新聞の編集員、伊奈久喜氏署名記事の風見鶏の中に、「以前、新聞に『イズム=主義にあらず』と書いたところ、東大で丸山真男教授の門下だった先輩記者が『………イズム………中毒と訳せばいいと丸山先生に教わった』と教えてくれた」、との記事が出ていました)論理に覆われているために見えにくくなっています。技術があるから、お金があるから、命の大切さ、世間並みの幸せを、移植後進国だ、の声に、人間の理性・知性の持つ愚かさ(我痴、我見、我慢、我愛)を感じるか、感じないかでしょう。
 仏教の智慧の光に照らされないと見えない世界が有るのです。世間では「愚か」というと学校で、試験点数の低いのが「愚か」と言うことになるのですが、私達の理知・分別の愚かさは試験点数で言うと百点満点のもつ愚かさなのです。
もったいない、おかげさま等の見えないいのちの世界、無量寿なんか考えなくても、理性・知性、分別で考えるだけでこの世は生きていける。仏教なんて必要ない、等の仏教へ無関心であったり、関心があるとしても自分の欲・望みをかなえてくれる、神頼み的な世俗の延長線上で宗教を考えていることの背後に潜む愚かさです。
二階堂行邦師は「いのちは、それ自体で満足している世界を生きている。いのちは決して自己満足のために生きていない。自己満足は、いつも他を利用してやまない根性であるが、自体満足は他を利用する必要がない満足である。いのちはそれ自体、独(ひと)り尊しと生きている。」と教えてくれています。
 人間の理性・知性が人間にとって便利が良く、快適な生活環境を造ることを考えながら都市社会が出来てきました。それは限りなく改良を重ねていく、人間の知恵の歩みの結果であります。そして人間の思いの多くが実現できてきました。しかし、都市社会の長所・短所を抱え込みながらのことであります。短所や問題点は理知・分別で克服出来ると言う前提で「より良い物を」と取り組んで今後も進んでいくでしょう。
しかし、ある識者が都市社会の問題点を既に指摘していたのです。
(1)人間が部品化していく、物や道具みたいに扱われるようになる。
(2)時間の輝きがなくなる。予定表をこなすように次から次へと予定に追われる生活、区切りがつかない。
(3)管理社会になる。事件、事故が起こると当事者の管理責任が問われることになり。選挙で選ばれた議員、首長(そして、その下で働く公務員)は管理責任を問われないように管理をしっかりするようになります。
すると管理される市民に取っては窮屈な社会になるのです。民主主義の原理は最大多数の最大幸福を目指すとうたわれています。いかに折り合いをつけていくかが常に課題となっていくのです。
技術があるから、お金があるから、命の大切さ、世間並みに、移植後進国だ、の声の発想の背後に問題をはらんでいます。知識、技術、財力のあるなしで評価していく意識。命が大切と言うが、自分の命へのとらわれ、他の命ある存在への配慮が欠けていく傲慢さ。世間並みにと言う心に隠されている比較してやまない思い。後進国という思いに先進国、後進国という劣等感・優越感の思いが差別意識へとつながる可能性があるのです。
人は誰も個性を持っていますから、差があるのが自然な姿です。能力のあるない、背の高い低い、等は必ずあるわけです。しかし、一人一人がガンジス河の砂の数の因や縁によってあらしめられている。そして、無量のいのち(寿)に支えられ、生かされているいのちの仲間なのだ。一人一人はお互いに、今、今日という時代性を共有する関係存在(お互いが時間的、空間的に関係しあっている)であることを大切にしたいものです。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.