7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2549

 ソニー関連企業の役員をされている土井利忠氏(ペンネーム;天外伺朗)の日本経済新聞の5月30日の記事で「後期自我」という言葉を使われて人間としての成長、成熟を論じています。インターネットで土井氏のことを検索してみたら関心を持たざるを得ない人であることを始めて知り早速著作を数冊注文しました。
講演記録の中で定義として「理性でもってきちんと自分をコントロールして立派な社会人が演じられるレベルを『後期自我』とされています」、ちなみに「初期の自我」とは、自分の要求を比較的に出してしまうレベルとして、「中期の自我」をフロイトのいう超自我が出来てきて、ある程度の倫理観や自分をコントロールする力が付いた状態、しかし、依存心が残っている状態、会社人間という会社べったりで会社の為には全てを投げ打ち法律に違反してでも会社の為に尽くすとか、配偶者にべったり、新興宗教にべったり縋(すが)ってしまう、のは中期自我に相当する。反抗期を経て、両親の束縛を断ち切って自分が独立した状態を後期自我としています。現代の学校教育はその後期自我に向かって教育をしているのです。しかし、後期自我の確立が出来た人たちも課題があるとの指摘です。
自我は信教の自由ということで古い宗教的な束縛から解放されて、理性が中心になり、科学的合理主義を中心として社会生活をするようになっています。近代は科学的合理性というものが社会の生活規範となり、公的学校教育では理性的、知性的に思考出来るように訓練されてきました。中世における封建制度や封建制度に組みこまれた宗教による束縛からの解放がより進んできましたが、外的な束縛から自由になったことによってかえって理性・知性の自律性(自律性があるかどうかは?)がうまく機能せずに、エゴの肥大や膨張を引き起こしたのが近代・現代ではないかと思われます。
国レベルでいえば帝国時代はエゴを肥大させ、エゴの追求を推進力にして社会経済が発展してきた時代性であったといえるのです。場合によれば軍事力をも行使して勝ち続けなければ植民地にされてしまうという時代が過去にあったのです。
理性・科学的合理主義が中心になって、宗教的規制から外れてエゴの暴走しやすい社会ともなっています。一生懸命努力することが善とされ、一生懸命勉強しろ、一生懸命働け、働いて成果をあげると、給与があがるぞ、地位が上がるぞ、そういう動機付けがなされてきました。個人のレベルから、会社・組織のレベルまでエゴを追及しなさい、そのエゴを追及するエネルギーが社会全体を活性化している社会になっているのです。時には人間や社会に取って必要という理由よりも利益を上げることができるから活動をするということになりがちでもあります。
そして人びとは限りなく明るい明日、未来を目指してがんばるわけです。未来や外(自分や自分の所属するグループの外側)に関心事があることが集団をまとまらせる働きをもはたし、そして総合力を出せるという結果にもなるからです。
最近の自由社会を守るためにテロとの戦い、自国ではなく特定の国の悪や、過去の悪事を裁く、非難することによって内部の一時的なまとまりを保つという事実はそれを教えてくれます。このことは進行形でいることに強い意味があり、予想外に関心事が早くなくなると困るのです。あっけなく戦いに勝ってしまうと困るのです。戦っていないと内部が安定しないのです。内部をまとめるためには次から次へと戦いを仕掛けてしまうという危険性もあるのです。次なる目標を作らなければ内部組織がうまくいかなくなるからです。
極端に言えば、後期自我の人は戦っていないと、生きていくことができないのです。勝っていないと安定しない内面性をかかえているのです
以前働いていた組織の中で、次から次へと計画だけは作って、あれをします、これをしますという職員と一緒に仕事をしたことがありましたが。エゴを追求する科学的合理主義の中毒の一面であったとうなずけることです。
いわゆる原理主義的な宗教に依る者は現在の状況を、宗教を無視してエゴの追求と、エゴの暴走がものすごい勢いで社会を支配し、それが煮詰まってニッチもサッチも行かなくなったのが、今の社会の混迷だという見方をしているようです。しかし、宗教の力の強かった中世は今より良い世界だったかというと、そんなことはないわけで、闇黒の中世と言われるようにやはり大変抑圧的であったとおもわれるのです。
科学的合理性のアメリカン・ドリームで象徴される、頑張れば報われるという社会は人間の理想的な社会の一面があります。しかし、そんな社会を永年見てきた土井氏はさらに「世事にたけて、世間で世渡りがうまく、人目も羨(うらや)むような世間的に成功したアメリカの人たちも何年かたつとうつ病になる人が多いのです。アメリカン・ドリームの末路というものは哀れです。ものすごく稼いで、ものすごく沢山もっているお金を全部精神科医に貢いでいる。」後期自我の確立だけでは課題があるのではないかとの指摘です。「後期自我の人というのは戦っていないと生きていけないです。引退すべき年になっても社長の椅子にしがみつく、肩書きがないとまずいと思う。社長の椅子を失ってしまうと、自らを死に向かって駆り立ててしますのです。いわゆる悠々自適という生活をきちんとエンジョイできないのです。後期自我というレベルで戦っていないと安定しないレベルの人がアメリカ社会、いや日本でもヨーロッパでも社会の上層部に沢山いるというのが今の近代文明社会です。」と言及されています。後期自我から成熟した自我への成長が求められるゆえんです。人間としての成長・内面の成熟、そして完成した状態を仏という定義があります。
成熟した人はどんなに見えるでしょうか。それを示唆する物語があります。
甲氏がある王のために闘鶏を養成した。十日たつと王が甲氏にたずねた。「鶏はもう闘鶏に用いることができるようになったか」と。甲氏が言った。「まだです。今はちょうどからいばりして気負い立っているところです」と。十日たつと更に王がたずねた。甲氏は言った。「まだです。まだ他の鶏の声を聞いたり姿を見たりすると、とびかかろうとします」と。十日たつと更に王がたずねた。甲氏が言った。「まだです。まだ他の鶏を見るとにらみつけて怒気をみなぎらせます」と。十日たつと更に王がたずねた。甲氏が言った。「完成に近いです。相手の鶏が鳴いていどみかかっても、もう態度を変えません。遠くから見ると彫刻した鶏のようです。その徳は完全です。こうなっては他の鶏は決して戦おうとはせず、背を向けて逃げ出します」と。闘鶏の完成された姿が実は木鶏であったという。木鶏は木に彫り込んだ鶏だから決して闘うことはない。動くこともなければ考えることもしない。まして表情など一切浮かべない。このような木鶏の姿こそが、闘鶏を鍛えに鍛え、最後に行き着いた理想の姿だと言うのである。
真宗が生み出した「妙好人」の姿が思われます。見た目には普通の人です、でも内面の成熟、目覚めの世界を持っているのです。宇佐市出身の名横綱双葉山は連勝がストップしたときに知人に「いまだ、木鶏たりえず」と電報をうったと聞いています。

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