9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2549

 今年100歳になるご婦人を担当しています。主治医になって毎日顔を合わせながら対話を繰り返し、人間関係が出来てきます。ある時、その患者さんが「先生、私は長生きしすぎました。縁者ももういないし、早く昇天して楽になりたい」と言うのです。この人は足が不自由で車いすの生活ですが、頭はしっかりしています。患者さんの家庭状況や今までの経過を婦長さんから教えてもらい、対話の中でいろいろ聞いて状況も把握出来てきます。真宗の門徒さんと言うことも分かりました。ご主人が軍人であったと言う、そして薬師寺の高田好胤さんにご縁があったというのです。所属するお寺の住職さんに聞いて見ると積極的に聞法するということはなかったようです。「早く昇天したい」、とたびたび言うので、私が「Tさんは浄土真宗の〇〇寺の門徒さんと聞いたけど、昇天と言うことは、いつからかキリスト教か宇佐神宮に宗旨替えされたんですか」、「浄土真宗では浄土に参る、とか往生浄土というのではないですか」と言葉を返しました。すると、「浄土も天国も上では通じてないですかね」と頭の柔らかいことを示すような反応が返って来ます。しばらくして私が「そんなに死にたいというのなら、一度あなたの心臓の声を聞いてみて下さい、肺の声を聞いて見て下さい。頭は勝手なことばかり言って死にたいとか言いますが、頭の言うことはきかない方が良いですよ」そして「頭は無責任な事を言いますが、身体は文句も言わずに私を支えてくれているのですよ」「身体の声を聞いてみて下さい」と声をかけました。そんな会話をしばらく繰り返して、ある時どうでしたかと聞くと「心臓も肺も死にたいと言っていました」と答えが返って来ました。そこで「そんなに死にたいのなら、死ぬ実験をしてみませんか。絶飲絶食で一週間すればあなたの希望通りに死ねますよ。ただし、途中でのどが渇いた、とか、お腹がすいた、と感じはじめたら、あなたの頭は死にたいと思うかもしれないが、あなたの身体はまだ生き延びたい、と言っている証拠なんですよ」と話をします。そんな対話をしばらく交わしながら、ある日の朝食後、リンゴをむきながらおいしそうに食べているので「なかなか実験をはじめないのですね」と声をかけると「手が勝手に動くんですよ」と絶妙な答えが返って来るのです。またしばらくして「いつから実験をはじめますか」、と問うと「先生も実験に加わって下さい」と言うのです。「私は死にたくないので、実験には加わりません。あなたが死にたいと言っているのであなたがひとりでしてください」と答えました。そんな会話をしていたら看護師さんがこっそりとTさんのことを、「いつも死にたいと言っているが、食事の時には健康にいいという健康食品は3種類、病院の食事とは別に食べているのですよ」と教えてくれました。数ヶ月が過ぎた頃 Tさんが新聞を読んでいるところで話を交わしはじめたら、「先生、私たちみたいな高齢者が増えると、これから皆さんに迷惑をかけるし、このままだと日本が滅んでしましますね」というのです。それを聞いて、頭もまだしっかりしていると思い、日頃から「死にたい」と口癖みたいに言っているので「そうですね。それならTさん、死んだらどうですか」と声をかけると「先生、私一人死んでもどうしょうもありません。みんな一緒に死ななければ」と答えが返って来ました。
 Tさんとの対話で私の分別の姿を教えられます。老・病・障害等に直面すると自分は役に立たない。もう死んだ方がいい、と自分を傷つける(自損)。そしてみんなも一緒に死んだ方が良いと道ずれにしようとするが如く、他を傷つけようとする(損他)。大乗の仏教は「自利利他(自分も救われ、他も共に救われる)」を目指しています、しかし、われわれの分別はその逆に自損・損他となることを教えてくれることです。Tさんは会話の中で「早く死んで楽になりたい」、とよく言う。私が「今、皆さんが良くしてくれて、楽をしているではないですか。死んだら何処に行くか分からないでしょう。慣れたこの世が良いのではないですか」というと「私は悪いことは一つもしてないので天国か、浄土に間違いなくいけます」と言われるのです。百年の間、分別をしっかりと働かせて、道徳的に良い心、良い行動と心がけて来られたのでしょう。親鸞聖人は人間としての倫理性、道徳性を育てる教えを「仮の宗教」と言われています。そして仮の宗教は「真の宗教」へ引き込む為の宗教と言われています。「私は悪いことなどひとつもしてない」、と私だったら到底言えることではありません………。
 人には迷惑をかけてないと強く主張する人ほど、周りに迷惑をかけている。私は悪いことをしてない、という人ほど自分を見る目が甘い。自分のことは自分が一番よく知っているという人ほど、自分の姿が分かってない、という厄介さはよく経験することであります。南無阿弥陀仏
 Tさんは仏さんが私を迎えに来るのを忘れているのではと、ちょっと心配顔になります。そして「できるだけ早く迎えに来て欲しいのです」と言われます。私はそこで「早くとか遅くとか、とらわれないで、命ある限り仏さんからいただいた仕事をさせてもらうのですよ、この世で仕事が終わったらちょうどいい時に仏さんが迎えに来ます、仏さんへお任せですよ」と語るのです。そして、「仏さんがTさんを迎えにきた時に、Tさんが『一刻も早く死にたい』、と囚われている姿を見て、Tさんは人間として成熟してないと判断されて、もう少しこの世で修行・勉強をして人間として成長してもらおうと判断されて、お迎えに来たが、Tさんの姿をみて引き返されたのでしょう、『仏さんにお任せ、南無阿弥陀仏』となると仏さんがちょうどいいときにお迎えに来てくれます」、と答えさせていただくのです。
 永年、理知・分別を拠り所として生きてきた生き様は骨の髄まで染み込んで、それ以外の世界が有るということに気づくことは難しい事です。気づきのないまま、自損損他していくことは痛ましいことであります。悟り、目覚めの世界へ若いときから是非とも接点を持ち、大きな世界に気づくことが願われる事です。

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