10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2549)

「神も仏も同じではないでしょうか。」という話を良く聞きます。
  宗教は、単なる観念や概念の世界ではありません。神や仏を「人間以上のもの」、「絶対者」などの言葉で、観念としてまとめることはできますが、それぞれの宗教においては、神といっても仏といっても、その内容は千差万別であり、決して同じではないと思われます。
  四苦八苦の現実を生身をもって生きている私自身に、直接はたらきかける神や仏は、それぞれ性格が異なり、大切な教えや信仰もみな異なります。浄土教(日本では浄土宗、浄土真宗)での阿弥陀仏は、人間を支配したり、人間に罰をあたえたりする神とは違って、明るい智慧とあたたかい慈悲ですべての人を救い、真実の生きがいと生き方を教え、そして種々の束縛(外なる物、と内なる物)からの解放を徹底的にあきらかにしてくださる“仏”です。自由自在に生きることの法則、これを仏法と言うことが出来ます。仏教は誤解を恐れずに言えば、霊(神というときに関係する霊)がらみで無いと言うことです。(鈴木大拙は日本的霊性という表現で仏教の内容を表現いようとしていますが、霊については厳密には専門家によっても定義が難しいようです)
  「神と仏とは、どうちがうのでしょうか。」
  「神」といわれているものには、-----霊が絡んでいるということができます。
  神というものを考えてみると以下のように整理することが出来そうです。
@天候や土地、農耕を司る神、すなわち支配神、----伊勢神宮、等
A山や水、岩や木など自然を人格的に考えた神、すなわち自然神、
Bこの世をつくり、すべての生きものをつくった神、すなわち創造神。
C英雄、戦争など功労のあった者をまつった神、すなわち功労神、-----靖国神社
D先祖をまつった神、すなわち祖先神、………田舎の神社
E正体はわからないが、タタリの神、すなわち怪奇神など、さまざまの神があります。
  これらに共通して「神」とは、人間を超えた力をもち、人間に威力もって影響をあたえると考えられている権威的存在(霊がらみの表現がなされる)です。神の意志にそわないものは罰せられる。したがって人々は神へのまつりを行い、祈りを捧げて利益や恩寵を期待するということになります。
  神という名前で言われていた多くの事象は科学的知見で解明できて、神という名で呼ばなくてよくなって来たということが出来ます。いろんな現象はその機序、メカニズム、からくりは、説明可能になってきました。しかし、どうしてという“Why”(なぜ)の課題については科学では解明は出来ないです。
  世俗的な神は人間の欲望と絡み合って人間の欲望の数だけ神は出てくると聞いています。実際、三重県鳥羽市には「カラオケ長寿神社」が出来て、本尊はインドの神毘沙門天(びしゃもんてん)にして本尊の前で歌うと長生きするということで観光協会関係者がはじめたと聞いています。大分県でも宇佐市と玖珠町の間の山の中の国道沿いに、いつの間にか起立したように並んだ岩の七個にしめ縄を張って七福神といって、湧き水とペアにして町おこしに利用しているようです。かって野球の大魔神と言うことで横浜の街の中に某投手を模した神社が出来てニュースで話題になりました。
  宗教とは何かという問題も大きな課題ですが、浄土真宗の教えでは次のように分類して教えてくれています。
  偽りに宗教----- 動物性を育てる宗教、 欲望、煩悩を助長して迷いを繰り返す
  仮の宗教------- 倫理性を育てる宗教  良い心、良い行いをしましょう
  真の宗教------- 仏格性を育てる宗教  人間としての成熟、自由自在の存在へ
宗教とは、宗;一番大切なよりどころのもの、教;教え、指針、方向性教える物、教えて---せしめるもの、と言うことが出来ます。
  「仏」とは「覚者」(めざめたるもの)ということであり「自覚覚他」といわれるように、みずから真実の智慧にめざめ、さらに他をめざめさせるはたらきをもつ存在であります。つまり仏とは、神のように外から人間と人生を支配するのではなく、人間の内にいて人間をめざめさせるもの、人間の心に変化をもたらし、かならず仏にならせてくださるはたらきです。
  物質の世界ではいろいろな物理法則に従って物は動いています。同様に人間が生きるうえでの法則、種々の束縛から解放されて自由自在に生きる上での法則、これを仏法ということができます。浄土は仏法、法則、はたらきの働いている場。感得できる者(自我のカラに目覚めた者)にのみ感じ取ることの出来る世界です。 
  「仏教はよく分からないが私は信仰心はあります」、と発言される世間的に現役で分別のある大人に良く出会います。頭を下げて拝む心を信仰心というのでしょうけど。頭を下げて拝めば信仰心というのはいかがな物でしょう。公的なマスメデイアが、“ここの神社(お寺)は何々の御利益があるといわれ人びとの信仰を集めています”、と言うように宗教を受け取っているようです。人間の欲望(自己的な願い、夢という甘味な名前で煩悩性を隠している)を充たしてもらうようにお願いする対象を宗教と呼んでいます。神を利用するか、取引しているのであって、道具か手段として見ているのであって宗教の名に値しないと思われます。現代人の宗教音痴、無節操を示しています。
  世俗で言うところの宗教は、宗教的目覚め、さとり、とは余りにもかけ離れた物を宗教と考えているようです、その90%(?)以上は人間の迷いを繰り返させ、煩悩性を育てることになっています。伊勢神宮の神官さんが以前「うちは交通安全の神様ではないが参詣者の交通安全のお札への希望が多いので仕方なく交通安全のお札を出しています」と発言されていました。多くの交通安全のお札を出す神社仏閣も似たりよったりではないでしょうか。時代と共に欲望の内容が変化してそれに応じて神はつくられていくのです。まさに“人間の欲望の数だけ神は創られていく”のです。仏教と神の違いは是非とも理解して欲しいものです。

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