11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2549

現代社会、すなわち世俗の中を生きる人間は「欲望する存在」ということが出来ます。存在とは、この地球上にたまたま生まれて来て、人生をおくっていく、その生きているということを抽象化して「存在」というのです(今村仁司「現代社会と人間の問題」南御堂より、2004年8月1日)。

私という存在を考えるとき、私の私たる確かなところはどこかと考えると、デカルトの「我思う、故に我あり」の言葉に示すように「思う」ところに、そして思う中心は頭、「脳」に中心があると考えて来たのです。そしてまた脳の意識するところに「我あり」と、実体的に確かなものとして私をとらえるのです。確かな「我、私」を考えると、必ず他と区別するようになり、そして私の体、私の家族、私の車、………私の所有物と考えが展開します。自我意識のでた「我」は自分を認めてもらう、よく評価してもらうことに満足を感じるようになります。そして「我」は他と区別して、他人に対して優越しようと見栄をはろうとするのです。まさに「欲望する存在」となっているのです。「世俗での人間関係は全て虚栄心から生まれている」、ということが世俗の真実である、と言い切っている人もいます。人前では化粧、服装、装飾品で自分を飾ろうとします。誤解されて褒め言葉をもらうことがある場合でも、誤解したと腹を立てずに、嬉しい顔になります。嘘を言われても褒められると嬉しいのです。

 満足とか幸福ということを考えるとき、「欲望する存在」の世俗的な「我」は、物質的な満足や、経済的な満足、お金を豊富に持って満足と思うようになっているのです。しかし、このような満足は仏教の智慧から見ると“飢餓のようなもの”ということが出来ます。都会人の多くが貨幣収入・給与による生活者であり、給与の額の高いことを人間として高い評価を受けたと考え、少しでも増えることを願います。そしてお金は貯めれば貯めるほど、もっと欲しいというようになっていくのです。このことは物質的満足が本当の満足ではなく、飢餓的な欲望であることを示しているのです。宝石の宣伝に「いったん手に入れると、さらに善いものが欲しくなる宝石です」という趣旨の宣伝を見たことがあります。

財貨に対する欲望は自然なところもありますが、多くは社会的、いうならば虚栄的な欲望で、限界がないのです。この欲望循環に巻き込まれると、どこまでも、もっともっとと欲望することの中毒状態になりやすいのです。 世俗ではその欲望の実現出来ている表相をみて,成功者、高額納税者、勝ち組とはやしたてますから、自分の中毒症状は分かりにくいのです。

 日本全体が都会化され貨幣経済に覆われ、お金さえあれば自分の自由がきく、思い通りに生活することが出来ると考えるようになり、世俗的には金儲けの才能のある人を、甲斐性性があると誉める風潮の為に、お金を多く持つことが幸福、満足と思うようになっています。恋愛ということは観念的に考えると、純愛小説のごとく、片思いが実現できると幸福、ハッピーと思いますが、実際的の経済的な物欲の実現は刹那的に満足感をもたらすが、人間の心を深いところでむしばむ物でもあるのです。

豊かであることが幸福につながると思っていますが、現実には、便利な物がたくさんあり、お金もそこそこ不自由しない、時間も十分にある、そんな社会状況の中で、内面に満ちる喜び、充足感をもってイキイキ生きている人にはなかなか出会えません。我々の中毒症状をもった生き様の愚かさ、不自然さ、そしてせっかく人間に生まれながら、現実は餓鬼・畜生の如くまさに地獄を生きていて、人間(温かい心の通った間柄を持つ人間)に成りえてないのです。そんな我々の現実を痛ましく思い、大悲されて、我々の愚かさを見抜き、何とか本来の姿に戻れとはたらきかけるものがあるのです。自然の野原の草花はどれ一つとっても自体満足の生き方でいきいきと輝いているではないですか。人として理知・分別をもったばっかりに、かえって分別に振り回されてしまっているではないですか。小賢しい自我として「欲望の満足」を追い求める私という存在に、我々の考え違いを照らしだして、小さな自我の世界を出でて、大きな世界に目覚めよ、と呼びかけられている世界があるのです。 我々の存在が心の底から望んでいる物は「欲望の満足」ではなく、「存在の満足」ですよ、と我々に目覚めを求めて、「本来の姿に戻れ、自然なあり方に戻れ(南無阿弥陀仏)」、とはたらきかけてやまないのです。本来のあり方、自然なあり方をしてないために、ゆがみ、きしみ、まさつが生じて、結果として我々の身体全体の苦しみ、悩みとして発現しているのですよ、と我々の全体の有り様を明らかに見透されているのです。不自然あり方をしている物が本来の自然なあり方にもどされる、非本来のあり方をしている物が本来のあり方に戻される、そのはたらきは、まさにいのちなき者にいのちあらしめたい、智慧なき者に智慧あらしめたい、と働くが如しです。そのはたらきの限りないことを無量寿、無量光と示し、無量寿・無量光のはたらきを合わせて阿弥陀仏と名付けたのです。私が私でないもの(現実の私よりも、ましな私、より理想に近い私)になろうとして苦しんでいたのでした。私という存在が私となりきる、人間に生まれたものが温かい間柄をもった人間に本当になる。個々の人がその人らしく生きることに完全成就するところに一人一人が真実に満足する世界があったのです。存在の満足とはこのことです。

縁起の法が教えるごとく、ガンジス河の砂の数の因や縁の和合によって生かされている、支えられている、願われている存在、人間として生まれた者が、温かい血の通った人間として成就して、目覚めた人間になり、人間として完成(成熟)して仏と成っていくのです。自己満足は私の周囲を物や道具に見ていくのですが、自体満足は私が私になって行き、周囲へは「友よ」と願いを持って呼びかけるようになる世界です

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