12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2549

 仏教のお育てをいただいて行くと、私たちは人間世界の世俗を生きる限り、善悪、損得、勝ち負けを考えながら地獄・餓鬼・畜生の三悪道を生きるしかありません、と知らされてきます。世間では「しあわせ」を目指し、しあわせのためのプラス価値を集めようとしますが、プラス価値、マイナス価値にとらわれる限り、最終的には老・病・死という不幸の完成で人生を終わるしかないのでしょう。そんな現実はあってもこの世俗の世間では暗いものや老・病・死は見ないように、ないものとして、ひたすら明るいものを前方に近視眼的に見ることだけして生きようとしているのです。

最近、90歳ちかいご婦人(浄土真宗の門徒さん、毎日正信偈で勤行をされている人)が「このまま眠りたかった」、と睡眠薬を多量に服用するということがありました。回復されて外来に来られた時の話です。100歳になるご婦人のことに触れた話(8月のご案内)をしたら、「100まで生きてかわいそうになあ!」と言われるのです。そして「こんな私は、迷惑をかける、役にたたん、本当なら姨捨山に捨てられてもしかたがないのに………、あのまま眠りたかった」。

この人(Hさんと仮称)にとっては健康や長生きの話では間に合わないのです。生死を超える世界への気づき、仏教の信心の世界への展開なしには救われないと思われました。

そこで、私:Hさん、南無阿弥陀仏の意味をどう考えています。 H:南無は帰依します、阿弥陀さんに帰依します、と思いますが。 

私:Hさん、仏さんの名前はなんだと思います。 H:阿弥陀さん、阿弥陀如来さん、阿弥陀仏でないですか。 

私:仏さんの名前は南無阿弥陀仏なんですよ。お経では名前となって私たちに届こうと誓わ

れた、その名前が南無阿弥陀仏です。『我を頼め、必ず救う』、の呼びかけです。こんな詩があります。『逝きし人 皆我に帰り来て 南無阿弥陀仏と称えさせます』、亡くなって仏さんになった人たちが、私に帰って来て南無阿弥陀仏と称えさせてくれるのです。南無阿弥陀仏は仏さんなんですよ。南無阿弥陀仏は仏さんの名前であり、念仏する者を浄土の迎えるとの本願なんですよ………………。

南無阿弥陀仏は分かりやすく言うと『あなた、小さなカラを出て 大きな世界を生きよ』という呼びかけなんですよ。 小さなカラとは役に立つとか、役に立たんとか、迷惑をかけるとか、かけんとか、そんな人間のはからいを小さなカラといっているのです。 そんな小さなはからいを超えて大きな仏さんの世界を生きなさい、との呼びかけですよ。

仏さんの世界を生きる者は仏さんから仕事が与えられるのです。多くのもの、無量寿に支えられ、生かされ、願われているのです。生かされて仕事が与えられているのです。 時には寝たきりを演じなさい、ぼけを演じなさい、と仏さんから仕事をいただくことがあっても、南無阿弥陀仏とその仕事をさせていただくのです。 それが念仏の生活です。

蓮如さんの詩に「名号は如来の御名と思いしが 我が往生の姿なりけり」というのがあります。 念仏するところに仏さんと通じて摂取不捨されて救いが実現して行くのです。

H:考え違いをしていましたね。ほんと役に立つとか立たんとか、迷惑をかけるとかかけないとか、私のとらわれでしたね。 お寺で説教を聞くようですね。

私:役に立つ、立たん、迷惑をかける、かけない、ととらわれていくことを小さなカラと言うのですよ。

H:本当にそうですね、とらわれでしたね。 良かった、良かった。 

私:お念仏していきましょうね。

H:ありがとうございました。その1ヶ月後の外来の時、遠方から帰ってこられた娘さんと一緒に来られました。高血圧等

の一応の医学的対応のあと、念仏の話をしようと思っていたら。娘さんが「おばあちゃんの爪を切っていたら白く厚くなっているのですよ、これは水虫だと思いました。先生、最近水虫の飲み薬で、爪の水虫にも効くというのがあるじゃないですか。水虫の治療をしてください。」 私:そうですね、それでは水虫の治療をするようにしましょうね、薬を処方しておきます。途中、副作用の検査が必要ですよ、等………。 H:「水虫が良くなるとは気持ちがいいことですね、うれしい………」。私が仏教の話をしようとするも、娘さんは、自分の言うべきことは終わった、さあ帰りましょうと、おばあちゃんをせかして診察室を出て行くのです。 睡眠薬を多量に飲んだとか、迫り来る老・病・死には意識的に触れないように、無かったことにして、何か明るい方向、健康の方向を向かせて………。無理もありません、現代人にはこの世間しかないのです。世間を越えた仏教の世界があるなんて思いもしません。

痛ましい、悲しいことであります。仏説無量寿経(大経)の中で法蔵菩薩が本願を起こされたのはまさにこれらの現実を見られたからでしょう。

自我(分別)のカラの中で、精一杯に、良かれと思って世間的なしあわせを目指して生きているのですが、所詮、智慧が無いのです、全体が見えないのです。 別の表現で言えば、あるがままをあるがままに見ずに、自分勝手な我見で独りよがりな見方をして、苦悩の現実を見ないようにして、課題を一時的に先延ばしにはするが、最終的には老・病・死の影を前に自損・損他していくのです。生死の四苦の解決がつかない限り、また、我見(自分の考えは間違いがないとの考え)で自分はだめだ、存在価値がないと愚痴の心が動き出します。

そんな我見のとらわれの愚かさに目覚めてみれば、この愚かな私のために浄土の教えが説かれていました。仏の教えを知らされてみれば,南無阿弥陀仏となって救いを実現しようと誓われていたのでした。 迷い、苦悩する、救われない存在がいるということは、仏として,いたたまれなかったのです。そんな仏の救いに確実に出遭った先輩方の感動の歴史がありました。釈尊、善導、法然、親鸞、そしてよき師を通して私まで届いたのです。

非本来的な有り方をしているものが本来の姿にもどされる。不自然な有り方をしているものが自然なあり方に戻される。そんなはたらき(智慧といのちを届けたい)を仏、阿弥陀仏と名づけるのです。南無阿弥陀仏は「汝、小さなカラを出て、大きな世界を生きよ」の叫びです。

お経では、法蔵菩薩(阿弥陀仏)は浄土の国を建立して、念仏する者を浄土に迎えとると、本願(南無阿弥陀仏となって救う)を立てられた、と説かれています。 南無阿弥陀仏のお心を細やかに知らされる時、私のためになされた、ご苦労、ご配慮を感得して、自分の愚かさに仏の前に頭が下がり、南無阿弥陀仏と念仏せずには居られないのです。

「浄土は言葉の要らぬ世界、人間世界は言葉の必要な世界、地獄は言葉の通じない世界である。」(曽我量深)

注意:最近の催眠薬は多量に服用して死のうとしても死ぬことはないそうです。

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