1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2549) 「仏と出遇うとは?」 ある聞法の集いで、ある参加者が、「仏法の話を7年前から聞くようになったが、7年前の私と、現在の私はちっとも変化がない」、と感想を話されました。そしたら、そのあと同じ地区からの参加者がその人のことに言及されて、7年間で大きな変化をして、一段と人格円満になられたことを讃嘆されました。主観と客観の違いが具体的に感じ取れて興味深いことでした。 浄土論註(曇鸞大師の著作)に「真実の法身を知るは、すなわち真実の帰依を起こすなり」という文章があります。「真実の法身」とは「本物、本物の仏」と言うことです。本物の仏を知るときは「真実の帰依」になるということです。仏の世界に触れたものは、「仏が分かった」という表現はとらずに、頭が下がって、「南無」という態度をとるということです。南無阿弥陀仏と念仏するということは、まさにそのことを示しているのです。 「恍惚と覚醒」(菅原伸郎、東京医療保健大学教授、2005年12月号の在家仏教)の記事にこれに関係する文章がありました。 「………前略………良い宗教と悪い宗教の見分け方は難しいが、とりあえずは一切を信じないことが大切だ、そもそも外にある何かを対象的に信じることが宗教の本来ではない。そうではなくて神・仏に気づくこと、感動することが大切………後略………」 普遍性のある宗教の神や仏の世界は、向こう側に見て(対象的)、それを信じ込む、信頼するという、思考、行動は宗教ではないということです。それは狂信、妄信へなっていく危険性が大きいということです。 普通一般に「信じる」と言う時は内容が分からないけど信頼して「信じます」と言う使い方になっています。信じるというときはその対象物について分からない部分が多い、ということを示しているのです。もし、内容について疑う必要もないほど分かった時はあらたまって「信じます」とか「信頼します」と表現する必要がないはずです。自分を超えたものへの出遇いは、気づき、感動の世界です。 ほんとにびっくりしました、参りました、圧倒されました、と感動の表現になるはずです。 天親菩薩の著作、願生偈の最初に「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」と表白された文があります。「お釈迦様、仏教に出遭い感動しました。私は阿弥陀仏に帰依いたします。そして浄土に往生することを願います」との意味です。本物に触れたものは阿弥陀さんに帰依します。浄土(阿弥陀さんの世界)へ生まれることを願います、と展開するのです。天親菩薩は釈尊の教えに照らされて、教えられ、大きな世界へ出会って感動した、そのことを釈尊の前に表白されているのです。 大きな世界に出遇ったつもりで「私は分かった」「私は仏の世界を悟った」と言った、とたんに仏教を私の頭で把握できる小さなものにしてしまっている愚かさに入り込んでいるのです。 現代教育を受けてきた我々は理知分別をより所にしているので自分の分別を超えたという大きな物に出会うことは出来るのか? 近代の自然科学者たちは、少なくとも彼らが科学的研究に従事している間は、はっきりと意識しないが実証主義という哲学的見地に立っています。実証主義とは有効な知識の形態として科学的知識のみを認め、その立場から知の統一を目指す哲学的潮流です。科学革命以来の科学の進歩とその社会的成功を受け入れる形で19世紀のヨーロッパで成立した人間の思考方法です。実証主義は形而上学(形而上(けいじじょう):形を知覚出来ないもの、有形を超越したもの、無形。形而上学:事物の根本原理を研究する学、宇宙の根本の本体を思索する学)の排除を通して知的統一を実現しようとしたものです。 日本の現代教育を受けた日本人の大多数が身につけた基本的思考方法がこの自然科学者的な思考方法です。だから普通の日本人には自分の分別を超えた大きな世界は、形を知覚出来ないから、認めることは非常に難しくなっています。その結果、無宗教を誇る人や宗教に関しての素養のない人が残念ながら多くなっています。 無宗教を誇る人々の生きる方向性は仏に出遇うなんて思いもせずに。自分の理知を依り所に自分の欲を、希望を実現して、幸せになりたい、という方向性です。脳で考えて幸せのためのプラス条件を集め、マイナス条件を少なくする、という方向性を取ります。若くて元気のよい間は、追い求める意欲で、さらに上、よりよいプラス条件を目指します。しかし、避けることの出来ない老・病・死が迫って来ると、どうせ死ぬんであれば、煩悩を満足させて楽しまなければ損だ、と考えがちになるのです。老・病・死を忘れる方向性か、見ないように拒否する思考です。 幸せのためのプラス条件を集め、マイナス条件を少なくする、という方向性をとる考えを仏教では邪見といいます。よこしまな考えです。なぜなら幸せのためのプラス、マイナスにとらわれて考える限り、幸せになるつもりが、加齢して結果として老・病・死に直面してマイナスである老・病・死を受け取れなく、愚痴を言うことになるのです。しあわせになるという方向性が「不幸の完成」という結果になるからです。よこしまに考えている、考え違いをしている、“邪見”と仏教は指摘するのです。 ? 仏教の智慧の世界を知らされるとき、幸せのためのプラス、マイナスにとらわれない世界に我々はビックリするのです。そんなことがあるの!、と、目覚める、感動する、という表現であらわすしかない出遇いが展開するのです。そして仏智を疑い、自分の思いにとらわれていることを懺悔(さんげ)して、思いを翻して仏の教えの如く生きていこうと勇気をもって一歩踏み出すのです。 私の分別を放棄するのか?、いや、そうではないのです。自分の分別を働かせながら、仏の智慧の世界を生きる、二重国籍みたいな展開になるのです。疑っていたという自分の愚かさが分かるのが、それが「信」、智慧の世界です。それを疑いが晴れたというのです。まちがっておったとわかることは、これはまちがいではない。邪見を邪見と気が付いたら正見です。不純であったと気づくことは、純粋です。 仏に出会うためにはどうしたら良いのか?? |
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