月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2549

 「成熟とは?」
 成熟とは、信心をいただいて、それから仏と出会うという時間的な前後のことではない。仏の智慧の眼をいただき、この人が菩薩さんだ、仏様だ、私を教え導いてくれる存在と分かる、いわゆる見えないが働いている“はたらき”を感得するというか、感じる心を身につける人格の形成を成熟とよぶことができるのではないかと思うのです。

感謝、ご恩といっても本当の意味で仏様に出会わなければ、頂き物とお返しのそろばん勘定でのお礼で、口先だけのことになりがちです。 本当の意味で仏様、本願、教え、仏の働き、私のためになされたこと、ご苦労、ご配慮を感得するとき私という者の頭がさがり、ナムアミダブツと念仏するのです。よくテレビで謝罪する場面として頭を下げている場面が放映されますが、「頭を下げる」ということと「頭が下がる」ということでは雲泥の違いがあります。私が頭を下げる場合は私の分別の判断で「ここでは頭を下げた方がよい」「私の頭を下げるという判断は正しい、間違いない」と考えて、私の意思表示として「頭を下げる」行動を起こしているのです。場合によっては私が頭を下げる行動を相手はどう受け取っているか、と周りの反応を見ている一面があります。「頭が下がる」というときは、こちらの分別はお手上げで、「参りました」と意志表現する時の行動です。私は正しいとか、相手がどうだという、私のはからいは働かず、周囲の反応を見るというようなはからいもなくなっています。私が圧倒的な大きなものに触れるとき、圧倒されました、お手上げです、参りました、となるのは自然(じねん)の経過です。近代科学の領域で大きな足跡を残した、ニュートンは万有引力の法則を発見した人ですが、自分のしてきたことを海岸の真砂の一粒を見いだしたに過ぎない、と言う趣旨の発言をしたと聞いたことがあります。最近の例では、遺伝子の研究の関係で、今まで機能してないガラクタと思われた多くの領域が機能しているということが分かったという、研究成果を日本の学者が発表したときの解説で、ニュースキャスターが、この発見で遺伝子の働きのかなりの部分が分かってきたということですね、と質問したら、解説者が、さらに未知の領域が広いということが分かってきました、と発言していました。教行信証の真仏土巻の中に「しかれば、如来の真説(シンセツ)・宗師(シュウシ)の釈義(シャクギ)明らか知んぬ、安養(アンヨウ)浄刹(ジョウセツ)は真の報土(ホウド)なることを顕(アラワ)す。惑染(ワクゼン)の衆生ここにおいて性(ショウ)を見ること能はず、煩悩に覆はるるが故に『経』(涅槃経)に『我十住(ジュウジュウ)の菩薩少分仏性を見ると説く』とのたまえり。」という文章があります。われわれ凡夫は煩悩に汚染された眼で見るから仏の世界を見ることができない。菩薩は智慧の眼で仏の世界を見ることができるが、仏の世界は無辺、無量のために全体を見るというよりは、部分的にしか見えない、「少分を見る」とはそういう心を示している。大きな世界に触れたものは自分の見える世界の小さいことに気付くのです。大きな世界に触れないものは、自分は全体をみることができたと我見に執われ、自分の見た世界が全てだ、と傲慢になる傾向があるのです。将棋と囲碁のプロのタイトルを持つ人の対談で、自分たちは囲碁や将棋の世界の全体のうちのどれくらいを分かるようになってきたかを紙に書いて示しあったら、共に1割と書いていたということを聞いたことがあります。人間の理知分別の有限性を思わして頂くことです。仏の智慧の世界に触れば触れるほど、その大きさに圧倒され私の分別の愚かさ、自分の分際が知られ、頭が下がるのでしょう。稲穂が実るほど稲穂の実の部分が、頭が下がるように下がっていくことはよく知られています。世間では「頭を下げる」ことは自我にとっては屈辱的なことであり、うれしいことではありません。自我はどうしたら頭を下げる回数が減らせるか思案しているくらいですから。

 宗教は自己否定、自我否定の一面がありますが、「頭が下がる」ことは決して暗いことではないのです。自我を照らし破った圧倒的な仏の智慧の世界、くまなく照らす無量光の世界へ導かれたことだからです。それは必ず心に感動をもたらすのです。

自我のとらわれを照らされながら、他人の立場にたって考えることができるようになる、それが成熟の現実の内容でしょう。どれだけ他の人の立場に立って、相手の内面性をも含めて考えることが現実の生活の中で出来るかということが成熟度になって行くのです。人間として完成した存在を仏という定義をした人があります。成熟して、完成した人間、仏になるのです。 「桃栗三年 柿八年 人は老いて 心豊かに 仏になる」という文章の色紙を見たことがあります。何のために生きるのか? 人間が生きるのは成熟の為ではないか。一体我々は「何のためにこうして生きているのか」を考えること自体、そういう問いが自分の内から出てくることによって、そこに答えが示唆されているのではないかと思うのです。問いが出てくることは、仏の回向、仏さんが私の法蔵魂となって、私に問いかけ、仏さんに出会う歩みをあゆんで行くことが我々の生きることの意味なんだと、大きな教えの光に照らされる歩みの中で気づいていくのです。多くの見えないいのち(寿)に育てられ、生かされ、支えられ、教えられ、願われ、今、ここに生きていることに目覚めていくのです。

 智慧の目を少しずついただく歩みの過程で、世俗の仕事の上で仏様と出会うという大事な仕事が続いていくのです。被教育者としての歩み、教化を受けて変わっていくということが「生きている」ということです、変わらなくなったときを死ということです。

一瞬一瞬を、念仏して大切に生きること自体が目的だと気づかされます。「現代人は生きるということの根本感覚を喪失している。生きるための手段で疲労困憊している。」「生きるとは生きているとの手応えの累積である。」

成熟とは仏様に出遇うこと。これが我々の生きる意味であり、死ぬことの意味である。

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