月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2549

 宇佐市医師会の新年会で会員の方から「般若心経の、色即是空、空即是色」、の「空」とはどういう意味ですか。テレビの宗教番組で京都のある高僧が「空」とはニュートリノなどの微粒子みたいなものだという説明をしていたけれど………」という質問を受けました。質問を受けて、あらためて私は「空」をどのようにいただいているか考えてみました。仏教の教える「空」は悟りの世界の表現ですので、実体的なもので説明することは難しいでしょう。いや人間の言葉では十分に説明できない内容ということは間違いありません。

私は「空」という言葉を聞いたとき、「ゼロ」ということを思い浮かべました。ゼロという言葉自体がインドで考えつかれた(発明というべきか、発見というべきか??)言葉であると聞いています。改めてゼロとは何か?といわれると説明が難しいのです。中学の1年生の数学で学んだように、一本の線の上に等間隔にしるしをつけて数字の5,4、3,2,1、と書いて、次はゼロでそしてマイナス1、マイナス2、マイナス3となって行きます。ゼロとは、実際的な実数ではなくて、仮想(?)の数字でしょう。いろんな可能性を秘めたゼロです。分数で1分のゼロ、10分のゼロ、1億分のゼロでも、分母がどんな数字であっても、それらはゼロです。私という存在がこの世の尺度でどんなに大きくても、小さくても、すべてはゼロ、実体的なものはない(無常、無我)、という真理を表しています。また、分母を0.0000 ……と、限りなく小さくしてゼロに近づけていくと、分子がどんな実体のある数字(正の数)(どんなに私の存在が世俗的に小さいものであっても、大きな存在であっても)であろうと無限に大きな数字になります(ただし数学的には分母は決してゼロになることはありません)。これは物事や私の存在がどんな世俗的な価値、評価であろうとも(どんな数でも)究極には無限大の尊さを秘めていることを示します。また、分母がゼロという究極は我々の世界には決してありえないのです。 悟りの世界、「空」を我々が分別でつかんだ時(瞬間)には「空」でなくなります、次元を異にする世界を表していると思われます。

質問された方に私は、「縁(条件)しだいではあらゆることが起る可能性があることを「縁起の理法」が示しています、そういうことの全体を「空」と表現しているのでしょう。仏教の「空」はこの世の森羅万象は実体的にあるのではなく、無量・無数の因や縁の和合によって有らしめられており、関係存在としてあるのである。そして一刹那ごとに生滅を繰り返している。変わらないものとして実体的にあるのではないということを「空」と表現していると理解するのがよいのではないか」という趣旨の説明をしました。しかし、十分に分かってもらえなかったように思われます。それはなぜか?期待された答えは「あらゆる物事は説明することができる」「人間の思考で把握できないものはない」という前提で質問されたように思われたからです。「空」も説明できる、理解できるという先入観をもたれているように感じられたのです。いや現代の知識人は知性・理性を働かして限りなく把握できるように努めることが知識人たるゆえんだという矜持(きょうじ)をもたれているということです。

あらゆる可能性を秘めた私という存在は縁次第ではどんなにでも変化する、無我、無常という、あり方をしている存在であり、無量無辺の如なる世界で時間的・空間的に関係しあって存在し、なおかつ内包されている存在である、と身をもってめざめ、気づかされ、南無阿弥陀仏と念仏して仏と通じる世界をいただくとき、世俗的な存在(色)の私は仏と通じて、仏の世界「空」・「涅槃」をかたじけなくも生きる存在たらしめられるのです。
また私の存在は煩悩を持った存在、色であり、縁起的な存在で、この世のしがらみの世界を生きる存在でありながら、大きな世界に摂取不捨されて、仏の前に頭の下がった存在、お任せの頷きの世界を「空」と表現するのでしょう。長年の仏教のお育てをいただいて思われることは、仏教の教える悟り、目覚めの世界は、私たちの理性・知性では部分的にしか頷けない世界であるということです。次元を異にしているというしかない世界です。ニュートンが万有引力の法則を発見して、「海岸の真砂の一粒を見出しただけです」といわれたということがぴったりのたとえではないかと思われるのです。

次の親鸞聖人の和讃が私と仏の包含関係を示唆しています。

「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」

「名号不思議の海水は 逆謗の屍骸もとどまらず 衆悪の万川帰しぬれば 功徳のうしほに一味なり」

「尽十方無碍光の 大悲大願の海水に 煩悩の衆流帰しぬれは 智慧のうしほに一味なり」

 宇佐市を流れる駅館川(やっかんがわ)は周防灘に注ぎ瀬戸内海の海水になります。駅館川の水が大水でどんなに濁っていても瀬戸内海の海水となれば、まして太平洋まで行けば駅館川の水の濁りなんて、ほとんど関係ないことになります。仏の智慧の世界と人間の知性・理性に世界の関係は太平洋の海水と駅館川の濁水の関係のように思われるのです。私の分別や煩悩が仏の智慧の世界を邪魔するような感覚にとらわれていたのです。仏の智慧を過小評価していたのでした。仏の大きさを少しずつ知らされ(聞法、学び)ながら、智慧の圧倒的な大きさを感得して頭が下がらざるを得ない世界なのです。しかし、そこは安心して苦労して生きることのできる感動の世界です。仏教の悟り、智慧の世界を無量の光で表す如く、量を量(はか)ることを超えた世界、比較を超えた、次元を異にしたというしかない世界です。

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