月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2549

 親鸞聖人750回御遠忌の東本願寺のテーマが「今、いのちがあなたを生きている」です。ふつうは「今、あなた(私)がいのちを生きている」と表現するところを工夫して気づきへの願いを込めて前記のようにされたようです。現代人の多くは「われ思う、ゆえにわれあり」という思考で意識を一番の中心として、わたしの意識を司る脳を依り所としているように思われます。私の体、肉体が先に誕生して自我意識は数年遅れて誕生したと考えられます。意識は遅れて誕生したけれど、先に生まれた肉体の管理中枢の役割を担うという立場からいつの間にか私の体の主人公に意識は成り上がっています。しかし、意識の管理できない領域も肉体の中には沢山あります。小腸、大腸や心臓等の内臓です。心臓や腸は私の意識とほとんど無関係に動き、機能して縁の下の力持ちのごとく私全体を支えてくれています。それらの働きなしには人という生物は生きていくことができません。人間社会の組織で、本来は現場を下から支える管理部門、人事部門であったのがいつの間にか大きな顔をしはじめて現場を上から管理する立場になりやすい人間社会の組織に似たものを見る思いがします。内臓は私を支えてくれているが、私に何か代償を求めたり、お礼を言えと要求したことはありません。私の意識は要求されたり、問題提起をされない限り、黙って知らない振りを決め込んで、当たり前と考え、支えられていることを無視しています。
 私たちは生きるうえで多くの大切なものは気づいたときには、すでに与えられていた、といえることが多く、恩恵を蒙っているにもかかわらず、当たり前と受け取って、お礼や、感謝するなんて思いもしません。いやそれどころか与えられたことの内容に文句(何故日本に生まれたのか、何故この両親の元に生まれたのか、もっとスタイルよく生んでくれれば良かったのに、能力があるように生んでくれたらよかったのに等)を言っています。与えられたものはすべて貪欲に私有化して、「私が私の命を生きている」、「私が私の体を、どうしようと私の勝手でしょう」と豪語しています。私の意識は周囲の事柄に関して、それは私にとって損か・得か、利用価値はあるか・ないか、勝ちになるか・負けになるか、ということには非常に敏感で、それに該当しないことはあまり考えようともしません。唐突かも知れませんが「こんな意識を持つ私の帰るところはどこでしょう?」と問われると、「聞くこともない、当然自分の家ですよ。」と答えます。
 普通はそうかもしれないが、「死んだときはどこに帰りますか?」「そんなこと考えてもわかりません、焼却されて煙や骨と灰になるのでしょうから、無になるのでしょう」「私の脳組織も活動を止めてしまうから、私は消えるしかないのではないですか」前記の問答に示される考えは私の意識を私の依り所としているために起こる考え方です。現代人の発想は対象化を特徴として、どこか事実を眺めている発想です。そして理性的で冷静になっているのです。仏教では対象化こそ人間の迷いの根源だと教えています。「死ぬるとは人のことかと思いきに、俺が死ぬとはこいつたまらん」と江戸時代の蜀山人が詠んだ詩は、他人事から自分の課題とする切実さが表現されています。仏教の智慧の視点では「いのち」を寿命と表現して、見える命は見えない寿(いのち)によって生かされ、支えられていると教えています。縁起の法に示されるようにガンジス河の砂の数の因や縁が和合して私の「いのち」が存在していることを示しています。阿弥陀仏(アミダブツ)は時間的、空間的に無量ということを示しています。時間的・空間的に無量の因や縁の和合で存在している私のいのちということです。私の存在のあり方は阿弥陀仏によっている、すなわち南無阿弥陀仏ということでしょう。南無は帰依する、帰命する、依っていることを意味します。時間的・空間的に無量・無辺の仏の世界を涅槃といいますが、私たちのなじみの表現では浄土、浄土の世界から生まれて浄土の世界に帰って往くということが私たち人間の有り様だと教えてくれるのです。浄土の智慧、無量光によって育てられ、仏の教えの如くに生きようと念仏して一歩を踏み出す者は理知分別を包み込んだ無量寿の世界を生きる者となるのです。
 脱仏教文化を生きる現代人は、確かな依りどころを見失って、空しさと孤独のなかで生きることになってはないでしょうか。ある精神科医は、現代人の特徴を、「自分という存在の<ある>ということが見失われ、ただ何を<する>のか、<できる>のかだけが絶対的な価値になってしまっている」と指摘しています。
 社会評論家の芹沢俊介氏は、「例えば、お母さんといっしょに砂場にいるとき、子どもは砂遊びに没頭します。没頭しているということは、一人になっているということです。ところがお母さんがちょっと隠れてみると、子どもは不安そうな顔になって、ついにはべそをかきだします。つまり<ある>が形成されないうちに、<する>が先行すると、不安な状態をもたらすのです」と語られています。母という自分の存在のよりどころ(無条件に受容される場)を見失うと、何もかも虚しく感じるようになってしまうということです。まさしく、存在の根拠を無視(失った)した現代人の状況を比喩的に語っているのではないでしょうか。
 私が「ある」という存在の背後の大きな世界、私を成り立たせている無量(時間的・空間的)のいのち、無量寿ということでしょう。例えば、30数億年の生物進化の流れで、最先端の私までの何処かでいのちが欠けたら、今、ここに、私は存在しないのです。歴史的ないのちの営みがこの私にまでなって、私を支えているのです。存在に関連する全体像を無視して「我思う、故に我あり」と豪語する非本来的な在り方の現代人に、本来の姿に目を覚ませ、気づけ、と働きかけ、教えてくれているのです。
 「する、できる」の領域が順調に経過しているときは問題は露出しないが、「する、できる」の所で壁にぶっつかると「ある」、存在の基礎の所が問題として露出するのです。自分を無条件に受容し、認めてくれる依りどころに目覚めなければ、自分の現実を受け止め、生き抜く意欲、勇気が湧かず、空しく生きていくという危うさを持っています。圧倒的な大きな世界、無量寿に依って「ある」、温かく受容されていることを深く感得する、存在の根拠がはっきりすると、悩み、苦しみが絶えない人生でも、どんな自分でも引き受けて生きていくという勇気と意欲が恵まれるのです。 世俗の世界をも安心して迷って生きていけるでしょう。
 「今、いのちがあなたを生きている」というテーマは、私にとってかけがえのないいのちを回復し、不安のままに安心して立ち上がっていくことができる真の立脚地を教える言葉だといただくことができます。

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