月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2550

「やがて死ぬ けしきもみえず 蝉の声」は芭蕉の句だそうです。蝉は地中で数年を過ごした後、地上で7−10日間過ごして次なる世代にバトンを渡して死んで行きます。この句は蝉の鳴き声は数日後に死ぬというような憂いや心配もなく、無心に夏を謳歌しているさまがうけ取れます。また一方では、この世の世間事に振り回されて無心ではなく、忘我で過ごしてないか、大事な課題を忘れていないか、との教えの言葉のようにも思われます。

一般の人や患者さんが、「癌になってしまえばおしまい」という言葉を言うことがあります。最近、ある男性の高齢者で通院して来られている80歳を超えた人から、「癌になってしまえばおしまい」という言葉を聞いたとき、何か違和感を感じたのです。 どうしてかと考えてみたら、まだ若い人で健康に注意されている人が「死んだらかなわん」、「死んだらかなわん」と健康に気とつけているというと、そういう違和感はなかったかもしれないが、平均寿命をはるかに超えた超高齢者(80−85歳以上)で種々の病名を持ち、生理的な老化現象と思われるような病名をも持って、体力的な予備能力はだんだん少なくなり、介護認定も受けて、限界状況に近い状態で生活をされているからであります。まさに「死の縁、無量なり」という日々をすごされていると思われたからであります。

現在、私たち団塊の世代の親の世代が超高齢者になっています。そんな高齢者の一人から「最近、夜、寝てから息苦しくなる」という医療相談を受けました。時間をかけて、よく事情を聞いてみると種々の病名の診断がついていて、複数の内服薬の服用をされていました。普通、朝の薬を服用すると午前中トイレに行くことがたびたびであって自宅にいるときは問題ないが、外出するとき頻回にトイレに行くのが都合がわるく、外出するときは利尿剤(心不全に対して処方されていたと思われた)を自己判断で止めていたという。そして最近、外出が続きこの1週間利尿剤を服用してなかったということであった。そのために心不全の症状が出てきたものと判断されました。以前は健康そのものと思われ教育関係で社会的な活動を幅広くされている人でしたが、加齢という事実とともに心臓や肺臓の予備能力が落ちていることを実感しました。

よく考えてみれば、生死の課題は高齢者に限ったことでしょうか。経験的、統計的に有病率、死亡率の高い、低いで勝手に私が思い込んでいるということであって、仏の目から見たらわれわれ、皆のあり方はガンジス河の砂の数の因や縁が和合して存在している、そして一刹那ごとに生滅を繰り返している、ということが事実です。養老孟司氏は講演の中で、この世の存在、私は常に変化している。一日前の私が死んで、今日の私が生まれている、ということがあるがままの事実である。そして人間が変化しなくなるときは「死」という時である、ということを言われていました。

人間に生まれた以上は、老若男女に関係なく皆共通に縁次第では死を迎えるというあり方をしているわけです。そういうあり方をしている私ですが、まだ当分は死なないつもりでいます。先ほどの「癌になったら、おしまい」と言っていた患者さんは以前、「仏教の勉強をしてみませんか」と声をかけたら、「わしゃ、まだ早い」と返事が返ってきたことがありました。まさに「やがて死ぬ けしきもみえず 蝉の声」の現実の私や彼の人です、南無阿弥陀仏。

最近の私の住んでいる市の広報で病気にならないように、障害を持たないように、体の健康に気をつけましょうと健康福祉の係の方の発言が載っていましたが、関係者の気持ちや熱意は痛いようにうなずけるのですが、表現の内容が病気や障害は悪いという心持ちが出たものになっていました。健康を損ねた人や、障害を心ならずも持つことになった人の心を考える配慮が欠けていると思われました。我、人ともに「病気になったらかなわん、障害を持ったらかなわん、死んだらかなわん」と振り回されている結果の所産でしょう。その結果、病気、障害をもつ者、老人の肩身が狭くなり、居り場所がなくなるという結果になっていないでしょうか。そのことは必ず自分自身の身にも降りかかってくることであります。

迷惑をかけないことが良いことだ、役に立つということが人間としてよいことだ、そして健康であることが、体力的に若いことが、良いことだと心がけて生きてきた者の多くが、迫りくる老・病・死を具体的に身をもって実感するとき、こんなはずではなかった、と生きることの方向性に戸惑いを覚えることになっているのです。時には生きることを止めようとする動機づけになっている可能性もあるのです。そして自損損他(自分を傷つけ、他の人をも傷つける)ということになっていくのでしょう。

仏教の視点では、どう対応するのでしかと問われれば、病気についてはまず医学的に治せるものは、治療を受けるということは、言うまでもありません。しかし、治療にあたっては医学・医療の役割について過大評価、過小評価せずに、客観的に考えるということが大切です。現代医学でできることは十分してもらった後、その後の病気への対応は仏教的な視点をも考慮しながら、あるがままの事実をあるがままに見るという姿勢が大切だと思います。病気に過剰に振り回されたり、医療不信や医療過信もまた新たな悩ましい問題を引き起こしてきます。

振り回されない為には、気易く相談できる医療関係者を友人に持つことが必要でしょう。友人が頼りなかったらどうしますか?「医師との出遇いも寿命の内」という言葉があるように、そういう人との出遇いをもったという現実が私たちの生きている社会ということでしょう。そういう医療文化社会を生きており、その社会の構成員の一人が私ということです。そういう社会の責任者の一人が自分と言うことです。

健康・病気の課題に振り回されたり、医師―患者の対話不足の現状があるが故に、仏(具体的なあらわれとしてよき師、よき友)は人間の世俗生活のあり方を痛ましいと感じ、大悲の心を起こされて、生死を超えた世界、救いの世界があることに気づいて欲しい、目覚めて欲しい、なんとか救いたいとの思いが、本願(根本の、本来の願い)を起こすという展開になったという物語が、現在でも通用するのです。科学技術が大きな展開を遂げた現在ですが、人間の歴史が始まって以来、御釈迦さんの時代も現在も、生老病死の四苦の課題、煩悩をかかえた人間の悩み、人間の内面の思いに大きな変化はないのであります。 謙虚に先人の思索や文化の蓄積に尋ねて行きたいものです。次のような論語の言葉があります。

「学びて思わざれば すなわちくらし、 思いて学ばざれば すなわち危うし」

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