6月のご案内(B.E.
Buddhist era 仏暦2550)
「約8年前、某大学で仏教の講座を開催したとき、学生(知人の優秀な息子さん)が、「仏教は見方、考え方を変えるということですね」と質問をされました。その時、時間の関係と初めての出遇いであったので、「そうではない」ということを十分に理解してもらう説明ができなかったことがありました。
仏教に「廻心懺悔(えしんさんげ)」という言葉があります。廻心とは心の持ち方が変わる、考え方が変わるということですが、懺悔という言葉を付け加えて、単に変わるということ以上の立場が翻(ひるがえ)される、という意味合いが表現されています。
同じような意味の言葉に「廻向」があります。辞書には自分が行った善をめぐらしひるがえして、衆生や自分のさとりのためにさしむけることをいい、或いは死者の為にする追善(ついぜん)をもいう、とあります。しかし浄土真宗では、仏の力によって我々を仏の立場に立たしめる(曽我量深)、私の思いを廻(ひるがえ)して仏道に向かう(細川巌)というように方向性ががらりと変わることを示しています。単に「見方、考え方を変える」にとどまらず、私自身が翻されているのです。それは自身が翻される、圧倒されるような大きなものとの出遇いを感得しているからであります。
懺悔(仏教読みではサンゲ)とは「自らが犯した罪過を仏や比丘の前で告白して忍容を乞う行儀」とあります。ネパール等の南伝仏教僧たちのまさに五体投地の礼拝・合掌はそれを示しているようです。
現代の日本人の我々にはこれがなかなかできないのです。なぜかと言うと学校教育で物事を客観的に見る訓練(対象論理、対象化)を繰り返し受けてきたからです。私と私の周囲をあたかも切り離すが如くに見る、観察して、時には自分の身体をも対象化して観察します。その時、私の見る本体は眼、意識を司る脳のようです。脳のはたらきは見えませんが確かにあるように思われます。「我思う故に我あり」のデカルトの言葉はこのことを表現しているのでしょう。見る本体の脳の機能は現代科学による解明の取り組みが始まったばかりで、まだ全容のつかみようがありません、見えないのです。その私を私たらしめているモノに罪咎(つみとが)があるとか、ひるがえすなんて思いもしません。傍観者的な視点でいわば安全な(?)な場所に身を潜めていたのでした。自分は変わらないで、外の事柄を変えていこうと人間は発想するのです。外界の諸々の条件を変えて私の思いに合わせようと努力して、時には周囲と折り合いをつけながらでも自分の思いに近づけようとしているのです。
私たちは私が変わるのがいやなのです。「自我意識」は自由といわないけれど、慣れてきた「我」を続けたいという思いがあるようです。年を重ねれば重ねるほど人間の「我」というものは自我を常識の判断基準にし、保守的になりやすいと思い知らされます。特に外からとか他人から変えられることを強いられるのがいやなのです。そして私の身体の主人公になり、我を通したいのです、傲慢になってしまっているのです。私の身体の主人公の私(自我)が頭を下げるなんて、できるだけしたくないのです。毎週のごとくマスコミで報じられる種々の謝罪の場面のごとく、公衆の面前で頭を下げてお詫びをするなんて、「屈辱的だわ!」という意識です。
私の方が変わるなんて、まして覆(くつがえ)されるなんて考えたことがない、と思う人が多いように思われます。それくらい対象論理の思考にどっぷりと漬かっていて、それ以外の世界があるなんて思いもしないのです。無理もありません、まさに仏の光に依らなければ見えないのです。よき師を通して仏の力によって私を知らされるのです。仏の光(無量光、智慧)によって照らされて見えるようになるのです、これを内観といいます。
仏教が日本の文化に貢献したのはまさにこの内観であったのです。曽我先生の言葉に「本当に宿業を知るのはただ如来である」があります。智慧の光に照らされて、人間の発想での見えるという事を超えて、宿業というように、そのものに宿されている深い意味、物語まで知ることになるのです。内観の世界を知らないと人生の半分を知らないで生きたということになります(大峯顕)とお聞きしています。それは本当に痛ましいことであります、悲しまずにおれないことであります。
清沢満之は次のように書いています(現代語訳)。「自己を省察せよ」とは、古の聖人が私に遺した不朽の優れた教えである。自己を知る者は、自己以外のものをよく知ることができるが、自己というものがわからない者は決して他のものを知ることができない。このことは、学問上の理論を深く考えるときだけに限られたことではなく、自分の(日常生活)実行の上においても、最も慎重な注意を必要とすることである。そして、その「自己を知る」というのは、決して外界のすべてのものを離れたところにある自己を知るというのではない。常に外界の事物とお互いに関係しあって離れることのない自己を知ることをいうのである。 思うに外界の事物をはなれたところに考えられた自己は、一つの妄想であり、そういうものが実際にあるわけではないだろう。なぜなら、真実の自己は、常に必ず外界の事物と関係しあって離れないものだからである。(「本位本分の自覚」清沢満
自分の力で真実の自己を知ることができるのは、お釈迦さんのような宗教的エリートには可能かもしれませんが、現代を生きる我々には、不可能に近いでしょう。釈尊の悟りを表現した本願の教え、浄土の教え、その教えに触れ目覚め、救われた仏弟子によって伝えられてきた智慧の世界、その悟りの心に触れることでその後の諸仏・諸菩薩が次々に誕生してきたのです。その歴史の流れに預かったよき師、よき友を通して、お育てをいただき、「なるほどそうであったか」「私の姿をあらためて知らされた」「頷けた」「腑に落ちた」と智慧の世界を知らされ感動(頷くと言うよりは驚きという表現に近いもの)させられるのです。そしてその思いが次なる世代に伝わっていくのでしょう。
変わることのいやな「我」も、仏法との出遇いの感動のあまり、「出遇うべきものに出遇った」「私の心の奥底で願っていたことはこのことであった」と圧倒され、頭がさがり廻心懺悔、念仏していくのです。仏教により照らし育てられ、照らし破られることによって我執からの開放へと導かれるので結果として喜び、感動、安心、そしてさらに教えにたずねて行きたいと展開します。単に「見方・考え方を変える」以上の展開なのです。
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