月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2550

 「沈黙の泉」(アントニー・デ・メロ著、)の中に「投影」という文章があります。

「なぜ、ここの人たちはそんなに幸せそうなんでしょう?わたしだけが不幸だなんて………」
「彼らは、どこにでも善いものや 美しいものを見る術を心得ておるからじゃ」と師は言った。 
「わたしにはどこにでも善いものや 美しいものを見るなんてことはできません。どうしてでしょう?」
「人は自分のうちに見落としているものを自分の外に見いだすことはできんもんじゃ」 
(古橋昌尚訳)

 私たちの思考は一度認識したり、経験したことを言葉、概念としてもつようになるのでしょう。世俗的ないろいろな言葉や考えは日頃の慣れ親しんだり、善く経験することだからよくわかるのです。
  仏教の言葉が分からないとか、難しいというのは日頃、慣れ親しんでいないからだと思います。人間の思考を超えた言葉と言われると、そんな世界が有るはずがないとか、そんなこと本当だろうかと疑います。養老猛司先生の本の中で、学生が安易に質問をする姿勢を批判して、「最近、学生が講義の内容等を質問して、『その部分が分かりません、説明して下さい』と言うが、その発言の背後には『説明してくれれば分かる』という、傲慢さの中にいることが分からない」と書かれています。ただし、質問することは非常に大切だということは間違いありませんが。
  大峯顕先生の本の中に、人間の心や意識のはたらきを「知・情・意」と表現することがあるが、「知」は人間の認識のはたらきの領域であり、人間の意識の働きで認識できる内容である。「情」は知の働きよりも大きなもので感性、感情で受け取る領域で、知の領域よりもずっと大きな働きの受け取ることができる、と書かれていました。知的には理解できないが、何にか感得することができた、というように知的な把握を超えた世界を感受する領域であると思われます。知的な世界を超えた世界を人間の言葉でなんとか表現しようとされたのが哲学という営みであるのでしょう。哲学することは学者だけではなく、人間としての営みとして大切なことだと思われます。
  北九州の産業医科大学の建学の精神第一条に「人間愛に徹し生涯にわたって哲学する医師を養成する」と述べられています。その実践のために仏教にも幅広く、深い理解をお持ちのキリスト者、本多正昭先生を招聘したと聞いております。
  自分の知的な理解に固執すると、把握できる範囲が狭くなるのは必然のことです。若い頃、哲学なんて暇な人のすることのように考えていた私は、本当に恥じ入らなければなりません。物質的な豊かさだけを追い求めていた我利我利亡者の私には、そんな哲学的なことの発想すらなかったのです。実利的な善悪、損得、勝ち負けに関係したこと以外を考えることすらしようとしない、表面的な浅い人生を生きようとしてきた私でした。
  しかし、細川巌先生との出遇い、そして師の教えを通して浄土教、仏教、宗教の世界へと導かれました。その結果、教えを聞いていく姿勢を賜りました。それは仏法を主とする生活です。そして師を通して多くの友を賜りました。また転悪成徳(悪を転じて徳となす、世俗の生活が浄化される)の生活へと導かれる歩みでもありました。深い内観の世界の広がりを教えられ、内なる束縛、煩悩・我執の私を知らされました。救われがたい自分の姿を知らされ、その私を目あてに、かたじけなくも願われ、届けられた“本願、念仏の教え”であったのです。
  阿弥陀仏の本願はわれわれ人間の煩悩や性格を十分に知りつくして、誓われたものです。根本になる願いはひとつですが、その一つが人間の状況によって細やかに展開して、時代状況の多様な変化にも対応して本願の数が発展展開して現在では四十八願として幅広くお経に示されています。
  仏の目覚めの世界、自力聖道門では『空』と表現される世界は人間の「知」を超えた世界(生死を超える世界)ですので、私たちの「知」では捉えることのできない世界です。人間の知性分別では発想されない世界ですので我々の普通の意識では知ることのできない内容です。 まさに『人のうちに見落としているものを自分の外に見いだすことはできんもんじゃ』であります。
  仏陀釈尊の目覚め、悟り、その目覚めの感動を受け継ぎ、受け取って生きる大きな歴史の流れに預かる僧伽(さんが、求道者の集まり)の一員となり、よき師、よき友を通して(媒介として)大きな世界(無量光、無量寿)を情として受け取り、感得する者は、目覚め以前の自分の思いの狭さ、浅さ、愚かさを恥じ入り、仏の前に頭が下がり、懺悔(さんげ)するのです。
  よき師・友の仏法との出遇いを讃嘆(さんだん、ほめたたえる)する人格に触れ、仏の世界、本願の世界を情(身体全体)で受け取り、感動する者は、阿弥陀仏の本願、四十八願はそのまま私の願いでもあったと気づいていくのです。知らされてみれば私の知らない私の心の深みにあって、自分の力で発見できない根本の願いだと気づかされるということです。私の知性で分かりにくいのはそれは私より大きな願いだからです。お浄土の命に生まれたい(南無阿弥陀仏)という、そんな大きな願いは自分の力ではとうていわからないのです。仏法のお話しを聞き(聞法)、聞き抜いて、聞き開き、お念仏の教えにであって初めて、私のその広大な本願の中に生かされていた、受容されていたことにうなづくことができるのであります。
  仏陀釈尊は縁起の道理に目覚めて、外ではなく内に眼を向ける智慧、内観によって人知を超えた、空、仏の世界に出られ、人間がいかに生きて、死んで行くかの課題を解決されたのです。それは今、今日、ここを精一杯生き、毎日を思い残すことなく生き切って、命終われば静かな平安の世界(涅槃)に還っていく安心(あんじん)の世界だったのです。

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