月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2550

 約10年ぐらい前のことである、前任者から受け継いだ胃がんで手術をした女性を外来で定期的に診察していた。手術後5年が経過したので、来院時、診察のあと「5年が過ぎたので胃癌の再発とかの心配はなくなりました」と話をしたらほんのわずかびっくりしたような反応を示された。その場はそれで特に問題もなく過ぎたのでしたが、翌日ご主人が怒った剣幕で病院の管理部長と一緒に病院の応接室に来られた。「誰の許可を得て胃がんという話をしたのか」「勝手に胃がんと言う病名を言われたら困る』という趣旨であった。「不満やるかたない」という怒りの家族の言葉に「しまった、もうすこし配慮して対応しておけばと一瞬思ったが」、あとの祭りである。人間関係で仕事をする者は配慮したつもりでも、しすぎるということはないと反省したことがありました。 前任者がどういう説明をしていたのか、という個々の申し送りは細やかなところまでなかなかできてなく、こういう行き違いが時々引き起こされることを経験します。
 臨床の現場で医療従事者と患者との間で生じるトラブルの多くは、両者の抱く「意味の世界」のギャップに由来すると言われる。同じ現象を経験しても医療関係者、患者、その家族はそれぞれ異なった世界観や価値観、病気観を基準に受け取り、その意味を理解する。その受け取りの相違があるために、両者の思いや感情の違いが両者の齟齬(そご)につながるのであります。
  パターナリズム(paternalism、父権主義)とは,父親が自分の子供の利益を慮(おもんばか)ってその子に助言したり干渉したりすることと同様に、国家や社会や個人が、ある人の利益になるという理由からその人の行動の自由や、情報を与えられる自由を制限することをいいます。
  知識や情報を持ついわゆる医療の専門家が、相手のことを慮って本当の情報を当人に告げなかったり、家族の方に先に相談するといった、かっての医療界の風土がまだ残っている現実があります。長い間、いや現在も一部にはパターナリズムの対応が為されていますが、人権意識の高まりや、インターネット等で専門情報への接近が容易になり、パターナリズムは減少して来ていると思われます。しかし、医療の現場で対話が十分だとはいえない現実があります。
  患者さんとの対話で情報提供を十分にするとなると,医療者サイドも患者さんに納得してもらうために十分な資料を用意しなければなりません。どの程度の副作用や合併症の危険性まで説明すれば適当か、という判断が難しいと感じることがしばしばです。20数年前シカゴで留学生活をしていたとき、知人が歯科の治療を受けに行き、米国では「説明が多くて、なかなか治療が進まないのですよ」とこぼしていたことを思い出します。
  物事の判断や理解には客観性のある統計や資料がどうしても求められます。医療・看護界では理論や経験だけでなく、疫学的な資料も治療法の理解や治療方法の選択判断の参考になるので、客観的な資料、EVIDENCEが大事にされるようになっています。そのエヴィデンスに基づいた医療(EBM;evidence-based medicine)が現在もてはやされるようになってきています。
  しかし、病気の治療ではなく、病人(全人的)の治療には、その患者さんの生活状態、環境、人生観、価値観、病気観等の情報が必要になることが多いのです。
  患者さんの全体像を把握するためには、エヴィデンスに加えて「ナラテイブ分析」が注目を集めるようになっています。この言語学領域の方法論は患者個人の語り(ナタテイブ、narrative)に焦点を当て、一人の病者が病むことを契機に医療関係者との対話を通して、世界観、死生観等を病者の思いを大切にしながら修正し、共有していくということを大切にするのです。患者の語り(ナラテイブ、narrative、人生観等)を臨床行為に反映させようという narrative -based medicine (NBM)が、EBMによって科学データ至上主義になりがちな臨床に
ヒューマニティーの潤いを与えるものとして注目されています。
  人類学的視点からみると医学というのも、それぞれの社会において文脈化された「知の体系」であり、一つの文化産物といえるそうです。人類学者で社会科学を研究されるあるグループは、「医学知識のみならず、あらゆる科学的知識が社会によって作り出されたものであり、自然界に存在する純粋に客観的な科学的真理などというものは存在しない」、という強い社会構築主義的立場(註;1)を主張しているということを読んだことがあります。
  科学的思考ということはいろいろな事象から導き出される規則性によって仮説を立てて、それが通用する間は原理・法則として、すなわち科学的真理とされ、それを拠り所として種々の思索を進め、思考を組み立てていきます。それが通用している間は科学的真理と思われるが、仮説であったという前提を忘れてはならないのです。
  我々は生まれ育った家庭環境、社会環境、教育環境で世界観,人生観、価値観、病気観,死生観が作られていくことは間違いありません。科学的合理主義の思考では、現象の機序、からくり(ハウツ、how to)は説明、理解はできるが、私の生まれた意味は?“なぜ”(why)という問い等に答えをだすことはできないことが多いのです。しかし、科学的合理主義を信奉し、執われる人は“なぜ”に答えるなんて出来るはずがない、と確信に近い思いを持っています(仏教に出会う以前の私がその典型でした)。いろんな人がいろいろな世界観を持っていていいじゃないかと言うことになります。みんなの中に私を埋没させてしまい、私が問われるのを嫌うのです。
  科学的合理主義から出てくる人生観、価値観、死生観は仏法の世界を知らされると本当に狭い、表層的な、浅い、そして結果として虚しさにつながるものだと気づかされるのです。フランスの哲学者・作家ボーボワールは1970年に著した『老い』で、「人間が最後の10 ないし15年の間、もはや一個の廃品でしかないという事実は、我々の文明の挫折をはっきり と示している」と、現在の状況を予告するような発言をしています。しかし、挫折を超える、人間の発想を超えるという思考は世俗の人間からは出るはずがありません。
  釈尊が悟り、目覚めの世界を“真実の世界”“真実信心”と表現したことが、まさに驚きとして頷かざるを得ないのです。仏法に出遇なかったら、世間の中で、善だ、悪だ、勝った、負けた、損だ、得だと振り回され、世俗に埋没するしかない人生であったでありましょう。いや現在もそうであるが、そのことが日常性への埋没となり、沈み込んでしまうか、目覚めのご縁と転じて行くのかの大きな違いがあるのです。結果として、『私』が生きることに偽り(空過流転の人生)と真実(実りある人生)があるということではないでしょうか。
  仏教が教える、人間に生まれた物語、生きることの物語、死んで行くことの物語、仏教はなんと素晴らしい物語(narrative、死生観等)を教えてくれていることでしょう、南無阿弥陀仏。

註;1、構築主義(構成主義 constructionism または constructivism):この名前は近年,社会問題研究,科学社会学,社会心理学,精神医学,人工知能研究など,数多くの分野で用いられている。「実在物とみなされているある現象はじつは,人々による,文化に媒介された合同の活動 joint activities の産物(構築物)である」といった意味あいの用語です。

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