11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2550)
「私―それ」 の世界
物事を対象化して見るというのは、自分が中心にいて、そして外側のいろいろな事象を見るわけです。そしてこれは役に立つ、これは役に立たない、これは利用価値がある、これは利用価値がない、これは私の敵だ、こっちは私の味方だというふうに、良いものは取り入れよう、悪いものは除こう、そして自分の人生を成就させようとして生きてゆくことになるのです。
これをマルティン・ブーバーという方は「私−それ」の世界を生きていると言っています。ブーバーは、私たちは自分の考え方によって世の中が二つに分かれるという表現をしているのです。私たちは自分の考え方がどう変わろうと世の中は一つしかないと思いますけれども、ブーバーは、私の考え方で世の中が二種類に分かれていくと言います。「私−それ」の世界と、「私−あなた」の世界であると。
「それ」と「あなた」とはどういう違いがあるか。英語でいうと it と you です。it は三人称で、少し私から距離が離れている。you は二人称で非常に近い関係です。例えば自分の親が悪口を言われたとしますと、子どもである私の悪口に感じる。また自分の子どもが人から悪口を言われると、親である自分の悪口に感じたりする。そのように切っても切れない関係を「私−あなた」の関係と言います。こらは血の通った一体感のある温かい関係です。
「私−それ」の場合は距離があるので、悪口を言われても自分に関係がなければ一緒にその人の悪口を言うぐらいなものです。「私−それ」は血が通わない冷たい関係です。
私たちの対象化して客観的に考える見方は「私−それ」に近いわけです。相手を物や道具として見ている。自分にとって利用価値があるものは取り入れよう、価値のないものは除こう。 自分の味方とはいつも付き合うけれども、敵は出来るだけ会わないようにしておこうとするのです。
私たちはどちらを生きているのだろうかと考えてみると。例えば子育てしている時に、子どもに「こんなに言うことを聞かない子はよそへ行きなさい」と言った途端、「私−それ」になる。私にとって好ましい子どもは私の所、私にとって疎ましい子どもはよそへ、 と考えているようでは、 ほとんど 「私−それ」 を生きているのではないでしょうか。
私たちは利用価値があるかないかで周囲の者に対して冷たくなったり、優しくなったりしています。節分の時の「鬼は外、福は内」の発言の心は「私−それ」の世界です。
大きい地震等の事件・事故があって一時的に心配しても、自分の家族や親戚が大丈夫とわかれば後はもう平気です。人間はそれぐらい冷たいのです。私は「私−それ」の世界をいつのまにか生きています。親でも素晴らしい存在であれば「私たちは親子よ」と誇らしく言っていたけれども、年をとり、だんだんお荷物になってきたら、もうこんなお母さんはいない方がいいとなる。 死んでくれた方がいいとさえ思うことさえあるのです。
「私−それ」を生きている者は血が通っていない、ということはいのちがない、冷たいのです。本当のいのちに触れていない。相手を物や道具に見ているということは、同時に私が物になっている。仏教では私が地獄、餓鬼、畜生、修羅を生きているといいます。本当のいのちの分からないものは生きても、生きたことにならない。法句経の言葉で言えば「そんな生き方で百年生きるよりも、本当の仏法のいのちの世界が分かって一日生きることの方が素晴らしいのですよ」というわけです。
私たちは自分の欲を満足させて生きることが人生だと思っています。それで本当に満足が得られるでしょうか。九十五歳になるお爺ちゃんが、ひ孫さんから可愛らしく「おじいちゃん、あと五年は生きて百まで生きてね」 と言われて 「たった五年か?」と答えたという。ひ孫にとってみれば、 百まで生きたらもう満足だろうと思うけれど、 当人はどこまでいっても満足しないのです。
現代の科学的な合理主義の思考では「私−それ」 の世界が育てられていき、理知分別は育つかもしれないが心は育たないものですから、常に外に向かって「何かいいものないかな」と追い求める発想になるわけです。物質的な豊かさは、豊かになればなるほど、その要求水準も高まるという厄介な性格を有している。そのため、すべての人が豊かさを実感できるというのは、実に妄想でしかないといわれています。
仏教が日本の文化にどう貢献したかについて、ある方が「それは内観の一道である」と言っていました。 私たちの心の内面の豊かさを耕して、本当に豊かにしてくれるのが仏教なのです。ところが、そういう世界がほとんどなくなってしまった。いつも外側に向かって 「何かいいものないかな、楽しいことないかな、面白いことないかな、役に立つものないかな」と言って外ばかり追い求める者の心は内面が不足・不満なのです。ですから常に何かを追い求めて、この不足・不満を満たさずにはおれないという習性を持たされてしまっているわけです。
そういうことを知らされて私は高校時代に読んだカール・ブッセの「山のあなた」の詩の意味がよく分かりました。
山のあなたの空遠く 「幸」 住むと人のいふ。
噫、 われひとと 尋めゆきて、 涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く「幸」住むと人のいふ。
(上田敏訳)
私たちは山の向こうの、例えば大分県にいるなら関西に行ったらいいことがあるらしい、東京に行ったらいいことがあるらしいと行ってみたけれども、何もなかった。幸は手にはいらなかった。それでまた帰ってきた。しかし、どこか外に何か幸があるらしいと思う。私たちはこのように限りなく外に追い求めます。それは不足・不満が心の内面にあるからです。
パスカルが、科学的な合理主義を拠りどころとして生きる私たちのあり方を、皮肉っぽくこう言っております。「私たちはいつのまにか明日が目的になってしまっている。 今、辛抱しておけば明日はもうちょっとよくなるぞ、このことが解決出来たらもうちょっと明日は楽になるぞと言って、いつも明日のための今日を生きている」 と。「今」「今日」は常に明日のための準備状況なのだというわけです。そして、「明日こそ幸せになるぞと言って、死ぬまで幸せになる準備ばかりして終わる」と言うのです。
私たちは、明日が目的ではなくて、今日が目的であるような一日一日をどうしたら過ごせるかを考えて生きないといけません。それなのに、対象化する私たち人間の知恵は、いつも今、今日が不足・不満で、何かより良いものを追い求めようという性質を持っている。 それが私たちの今、今日のあり方なのです。
もう一つ言うならば、自分の周囲をいつも敵かな?味方かな?利用価値があるかな?ないかな?と見る時、さらに内面では「いざという時にうちの奥さんは頼りになるかな?私の子どもは頼りになるのかな?」という心まであるわけです。「渡る世間は鬼ばかり」という生き方では、私たちは不足・不満の上に、なおかつ不安まで抱えているわけです。
(在家仏教:H18年11月号 「仏教はなぜ真実と言えるのか?」より一部修正) |