1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2550)

自我意識(2)

 普通、私たちは成人して行くにしたがい、自分というものはこういう自分だというように自分を知るようになります。知っている自分と、知られている自分、二つ分けることができます。すなわち、主語としての「自分は」と目的語の「自分を」ということです。
 目的語としての自分、知られる私については成長と共に発達分化されてきたのです。
 自我意識の発達が進むと、他人の目で自分を考えることができるようになります。すなわち自分が考える自分(自我A)、そして他人の立場になって考える自分( 自我B )、二つの視点で考えることができるようになるのです。
 自分が考える自分( 自我A )とは“私のことは私が一番よく知っている”と誇りたくなる私です。確かに私の気持ち、嬉しい、悲しい、怒り、感動、怠け心、楽をしたい、欲の衝動などは私にしか分かりません。 他人の目で考える自分( 自我B )とは、私は周囲の人に迷惑をかけていないか、私の存在が回りの人に及ぼしている影響などについて、相手の目になって自分を見ることで、相手の気持ちを推察することもできるようになります。自我Aとは違って、自分を自分から少し距離をおいて客観的に見る視点でもあるのです。
 この自我B(他人の眼、客観的に見ることで見える私)をみて、私を取り巻く状況は私にとって善・悪、損・得、勝ち・負けという尺度で考えたりします。自我のAとBとが対話するようにもなり、他人と比べたりして苦しみ、悩みで葛藤(かっとう)するということにもなります。 泣いたり、喜んだり、怒ったりする、自分で感じる自分( 自我A )と、他人の立場に立ってちょっと距離をおいて世間の目を気にしながら知られる自分( 自我B )が葛藤しているのを感じながら、倫理・道徳や自分の良心は?………などと、何が正しいのだろうか、私は一体どう生きたいのだろう、本当は何を欲しているのだろう、より理性的に知性的に考えて悩む私を問題とする自我Cが発達してくるのが思春期、青年期だといわれています。
 人生とはこんなものだろうとか、どうしたら心穏やかに生きることができるのだろう、私が小欲知足で慎ましく生きればいいのだ、私が清く正しく生きればよい、しっかりした自我意識を作らなければ……などと、三つの自我が安定を求めながらも常に揺れ動き、苦しみ、悩み、迷うのです。
 しかしながら、自分が理性的に知性的に考えていると思っている時は、自分の理性・知性が煩悩( 我が身が可愛いという思い )に汚染されて迷っているなどとは思いもしません。いや煩悩があったとしても煩悩は理性・知性で克服できるという理想主義を生きようとするのです。これが普通で、みんなこんなものだ、これ以外に考えようがないではないかと自分の考え方( 我見という )に独りよがりに自信をもっているのです。
 昭和44年の学園紛争華やかなころ、医学部の学生大会で議論が闘わされる時、理論的に合理的で説得力のある論理に、頭の上ではなるほどと影響を受けるのです。その時は、自分の個人的な欲は抑えてでも正しいと思われる理論、主張に賛同すべきだという心情になるのです。そこでは、個人的な私情を出すことは憚(はばか)れるという気持ちになります。
 個人的な私情は抑えて、理に従って行動すべきだ( 自我B )という理想主義が頭を占める。 一方では、自分の体全体では「わが身がかわいい」という思い( 本音の体全体での私、自我A )が日和見の行動を起こさせようとする。 いったいどっちの私の思いが本当の私なのかと戸惑い、葛藤(かっとう)しながらも本音の私が身体全体の行動を駆動します。
 紛争のさなか、学生が授業をボイコットするような国立大学は閉鎖するという声がどことなく聞こえてきた時、せっかく入学できた大学をやめなければならないとなると“困ったな”という、全身を揺さぶるような衝撃を私は感じたことを覚えています。
 学生ばかりの福岡での対話集会では自我Bの勢いが良いのです。一方、宇佐に帰って田舎で農作業を共同でしながら近所の人たちと対話する時に強く感じるのは自我Aなのです。その当時はその格差に戸惑いは覚えたが、なぜそういう事態が起こるのか、納得のいくうなずきは得られませんでした。哲学や宗教を食わず嫌いであった私には、俗物的な根性で、世間の中にまみれながら、若さゆえの理想主義にも染まり、それ以上の思索の展開は不可能であったのです。その中で葛藤する自我を眺める、もう一つの自我Cが芽生えてきて、いったい自分とは何者なのか、と考える自我Cがいました。自我の分化、多元化といわれるものです。
 これらの自我意識が混在しながら心の安定を求めて私の内部で悪戦苦闘していくことになります。ほとんどの人はこれらの自我意識の中で迷いながらも生きていくことが人生だと思って生涯を終えてしまうことになります。上を見てもきりがない、下を見れば私より大変な状態の人がいるではないか。今の私、私の現状に感謝しなければと自我意識を慰めながら世間生活の中で明るく楽しいことはないか、美しいものはないか、興味深いものはないか、我を忘れさせるようなテレビ番組はないか、などと日々の日常性の中に埋没して生活を営んで行くことになるのです。
 自我意識が迷っているということを全体的に見ることができる4番目の自我の誕生( 悟り、目覚め )が仏教の一つの目標であると思われます。自我の迷いを超えて目覚める( 自我A、B、C、を超えた自我D、自我の思いに振り回されて、狭い世界で右往左往している私に目覚める )ところに本当の安定、安心、喜び、感動があることを教えているようです。
 迷いの自我意識はこの世に常楽我浄(註1)あり、いや、あってくれないと困ると考えて、理想主義で安定を求めて常楽我浄なる物を追い求めて悪戦苦闘して人生を生きているのです。仏教の智慧、目覚め、悟りの目(自我D)で見ると、この世、世俗の世界には常楽我浄はないと明らかに知らされて知るのです。あるがままをあるがままに全体を見る智慧の眼ということです。
 仏教では照らし出す原理(教え、智慧、光明無量)と接点を持つことが大切です。照らし出されたものを対象化して知識として私有化しても、かえって重荷となり、心の自由さを奪われることになります。私がつかもう、理解しようとすることが、また、つかんだ、理解したと思うことが執われを深くすることになります。私たちは持ち前の吸収しよう、学び取ろうとする餓鬼根性で、教えていただいたことをも忘れて、自分の知識として私のものと握って私有化してしまうのです。そのことがまた新たな執われともなるのです。
 自我(エゴ)の執われから解放させる智慧の働きに接し続けて、照らされ続ける(聞法、念仏の大切を浄土真宗は教えます)ことが大切です。智慧を無量光とも言います、照らされること、教えを受ける立場、被教育者としての謙虚な姿勢が大事です。知らされれば知らされるほど智慧の世界の圧倒的な大きさに“参った”と頭が下がります。そして知っていること(知識)を誇り、傲慢になるのではなく自分の愚かさを知らされるのです。執われからの解放へと導かれ、同時に出遇うべきものに出遇った感動に摂取不捨されていくのです。
 「愚かさとは、深い知性と謙虚さである」(平澤 興)
 註1:常楽我浄:常とは永遠不変、安定したもの、楽とは一切の苦を滅した楽、我とは自在で拘束されないから我、浄とは煩悩の汚れのない状態があると考えること。

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