2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2550)

 私たちは通じ合う人間関係を生きているでしょうか。かって、自民党と社会党が一緒になり村山政権を作り、その後、再び別れた時に大分合同新聞の東西南北という欄に次のような記事が掲載されていました。 …前略…、……が離婚した。「別れた理由」ならだいたい察しがつく。芸能人に限らず、「理由」の大半は異性問題、つまり浮気、不倫、それとも性格の不一致と相場が決まっている。本紙にも随想を連載しているイラストレーターの沢野ひとしさんがうまいことをいっている。「私たち夫婦がこれまで別れなかった最大の理由は本質的な話をしてこなかったからだ」。至言である。夫婦愛とは何か、家庭はいかにあるべきか、などヤヤコシイことを話し合ったら、たちまち考え方、性格の違いが露呈して、せんでもいいケンカになり、「じゃあ、別れましょう」ということになる。ウソだと思うなら、今晩やってご覧なさい。……後略……
 また最近東京ビハーラの会の通信の編集後記にも考えさせられる文章がありました。12月例会のゲスト講師であった押川真喜子さんは、「在宅で死ぬと言うこと」(文春文庫刊)の執筆者でもあります。講演の中で「小児がんの経験をもつ両親は、お子さんが逝去した後、離婚率が高い」と言われていました。小児癌という極限の危機の中で、平和であればさらけ出す必要のないお互いの価値観の相違を見せつけられるからです。お互いの価値観の違いを包容してくれる大きないのちと言った生命観の不在が新しい不幸を生み出していくようです。と同時に小児癌の経験は両親にとってもトランスフォーメイション(質的転換)という成長の場でもあります。スピリチュアルペインという苦しみは、苦しみとして顕在化している自我の疼きでもあるからです。その自我の疼きを通して、自我を超えた考え方に出会っていく、ここにビハーラがあります。…後略…、がん患者・家族語らいの会通信No.58(東京ビハーラ、2007年1月13日発行)
 仏教の智慧に照らされて育てられると身も心も柔軟になり、驚きやすくなるということが示されています。何か事に当たって「私は正しい」、「私は間違いない」、「みんながそう考えている」と思うところに知性的でない部分があるようです。仏教の智慧は知性・理性、分別を超えるものといわれるが、智慧に照らし出されると、より知性的により理性的に導かれるのです。
 知性的とは、ある人が「自分の判断の客観性を過大評価しない。自分の判断に紛れ込む、無知、偏見を検出する配慮がなされていること」とうまく表現されています。
 仏教の教えから知らされる内容は、人間の心、心理、世の中のことを知り尽くしてわれわれに真実の世界を教えようとされていると思わせられることが多い、いや、多いというよりは圧倒されるという表現の方が良いと思うのです。
 お経に「ここに世自在王仏、すなわちために広く二百一十億の諸仏刹土の天人の善悪、国土の麁(ソ)妙を説きて、その心願に応じてことごとく現じてこれを与えたまう。時にかの比丘、仏の所説の厳浄の国土を聞きて、みなことごとく覩見して、無上殊勝の願を超発せり。」(仏説無量寿経)と表現されて覚者(仏、目覚めた人)が求道者に「広く二百一十億の諸仏刹土の天人の善悪、国土の麁(ソ)妙を説き」と圧倒させるような智慧の内容を表現されています。
 また、仏教の智慧の世界のはたらきを「六神通」と特別の能力として示しています。その中の「他心智通」と、人の心がわかることを大きな能力としてあげています。自分のことを考えてみると、私たちは相手の心が分からないのです。隣にいる人の心も分からない。いや、私の心をわかってくれたら嬉しい、心の通じ合う世界を生きることができるのですが、逆に言うと、私の心を知られたら困るのです。私の心が見透かされていないから、隣人と折り合いをつけながら生活することができているのです。夫婦・親子といえども、心の中を見透かされた怖いというか、恐ろしいことになるでしょう。お互いにわからないで生きているということです。
 生活を共にした夫婦・親子であれば、かなりの共有できる価値観・人生観を持っているかも知れませんが、仏の「他心智通」に比べれば、わずかなものです。わからないということは、一緒にいても人生を“共に生きる”人ではないということです。自分自身の心を知ってくれて、自分がその人の心を知った人とだけ、通じ合って一緒に生きるということができるのです。仏教の世界に触れてみると、それは如来と私の関係だけである。如来と私だけにおいて、一緒に生きるということができるのです。「他心智通」をあげられたのは、私たちにとって、そこにいる本当の存在は如来だけということです。目の前にいる様々な人たちは、一緒にいるが一緒の道を歩く友ではないということです。
 隣にいる人は何を考えているか、一歩外に出たら何をしているかわからない人と一緒にいると思うと不気味です( 渡る世間は鬼ばかり! それは地獄を示しています )。如来と私という関係を考えた時に見えてくる、他人の恐ろしさです。その恐ろしさを考えても、なおかつそこにいる人と一緒に生きたいと思う。一緒に心を通じ合って生きることのできない者が、迷える凡夫同士として、友として生きられる。そういう関係をどこに見つけていくのか。
 私の周囲の存在(人を含めて)を「私の人生成就」のための利用できる存在として見る視点を持つ時、相手を物や道具として見ている(「友よ!」と見てない)ということです。相手を人間としてではなくなく物として見るとき、私の心は血の通わない冷たい存在、物になっている。仏教では餓鬼・畜生に同じというのです。マルチン・ブーバーは「私―それ」の関係・世界と言われています。この現実を”痛ましい“”大悲して救わずにおれない”と、温かい眼差しで働きかける存在を仏教では「仏の慈悲(寿命無量)」という。「そんな世界が、本当にあるのか!?」、その世界に目覚めた釈尊、その教えに出会って感動した、善導・法然・親鸞、そしてよき師・よき友。その人たちに等身大の親しみを身近に感じるとき、私もまたその世界を生きたいと思わずにはおれないのです。
 「私−それ」の世界は“地獄”ですと改めて知らされたときの「驚き!」、それは当たり前、仕方がないではなく、怖いことです。地獄・餓鬼・畜生の世界を生きる私に「あなた」と呼びかける世界「汝、小さなカラを出て、大きな世界を生きよ、南無阿弥陀仏」、そのはたらきを身をもって感得するとき、「かたじけなくも、南無阿弥陀仏」と念仏させられるのです。救われるはずのないものが救われていく世界。コペルニクス的大転換です(絶対的矛盾の自己同一とはこのことでしょう)。
 私とあなたは、如来と共に生きる者(『汝!』、と呼びかけられ、願われ、生かされて、支えられている者としての自覚を生きる存在、)同士として、私たちは出遇うのです。あなたの中にも、私の中にも、如来(無量寿)を生きる者として出遇う。これを仏性と言われています。縁次第では何をしでかすか分からない存在、私を仏教では「機」という。そういう私のあり方に気づき(機の深信)、心が地獄・餓鬼・畜生の世界を生きている私に、「人間(心の通った間柄としての存在)」になろうよ、そして成熟した人間(仏)になろうよ、「あなたに智慧といのちを届けたい」と呼びかける働きがあったのです。
 私は社会的、経済的、家庭的、健康的にそこそこ世間的に満たされている、救われなくてもいいと思う人には救いの世界は分からないでしょう。願い事かなわず、思うようにならない、老・病・死の現実に否応なく直面するとき、よき人との出会いを通して仏教がひびいてくるようになるでしょう。
 仏智に照らし育てられると身も心も柔軟になり、あるがままをあるがままに見る智慧の目をいただき、驚き、感動しやすくなるのです。浄土の教えは若者向けよりは人生経験を積んだ者に響く教えであるようです。身は老いるとも教えに育てられ心は驚きやすくなるのです。

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