3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2550)

 私たちは通じ合う人間関係を生きているでしょうか。

 私たちは私の五官(眼、耳、鼻、舌、身)で感じる五感を頼りに物事を認識して判断します。人間関係でも五感を基本に通じ合う関係を培(つちか)っていきます。心や意識は五感を通して感じるモノで相手の心、思いを推測してイメージを作っていくことになります。当然、誤解や心の行き違いは起こってきます。
 私自身の人生観、価値観、倫理道徳観は地域社会・家庭環境、家庭の雰囲気、受けてきた教育、生きてきた時代の雰囲気、携わった仕事を通しての社会観、友人知人を通しての世界観、などなどいろいろなものに影響されて後天的に形成されてきたものです。世界の人口が60数億人だとしても、一人一人は全部、違った状況に生きているので同じ人生観、世界観をもっている人はいないのです。この領域(心、意識)は見えないので相手がどんなものをもっているかは、相手に関する情報や相手との対話の中から推測することになります。
 兄弟姉妹でも生まれ育った家庭からはなれて暮らすようになると当然、違った世界を生きることになります。また学校での同級生・同窓生、同じ寮生活の仲間、クラブ活動での仲間、仕事での同じグループの仲間、などなどは共通の経験を共有する仲間として比較的に通じる関係を持つことになりますが、その共有する時期を過ぎればまた異なった世界を生きることになります。関係性の薄い・濃いで親しさの疎遠ができますが、離合集散はご縁次第ということになります。まさに血縁,地縁、ご縁のなかで関係性を持つのであります。
 私のことを思ってくれる関係ということを考えると、現実生活においては家族でしょう。私のことを思ってくれることにおいて最右翼は親でありましょう。暁烏 敏の詩に「母の命に 背きて事を せし折も わがために母は 働きませり」があります。しかし、人間としての限界があります。仏教の教えをお聞きして、仏教を学んでみると、私のことを最も知っている存在、人間の心の機微や思考のあり方を知り尽くして、人間にまつわる全体像を知っているのではないかと思われるのが仏・如来です。仏のその働きを六神通(ろくじんつう、註1)としてお経に説かれています。延塚知道師は「本願の教えとはどういうことかと簡単に言うと、自分で自分のことがわからない私たちに、人間とは何者であるかを、仏さまのほうから教えようとしてくださっている教えなのです。」といわれています。
 我々が通じ合えないのは人生観、社会観、価値観や発育歴、環境の違い、そして性格の不一致などなどいろいろ考えられます。人によってはその原因を生まれた星座が違ったり、血液型の違いだろうかと迷信・占いに影響を受けて悩むこともあるようです。有名人の離婚の原因は多くが性格の不一致という理由になっていますが。その発想は性格の一致があると理想的な状況を想定しているのでしょう。性格の不一致が理由なら多くの夫婦は離婚して当然となると思われます。
 ある結婚して間もない人がキリスト教の師に、「私たちがずっと愛し合ってゆくためにはどうしたらよいものでしょうか」と尋ねたのに応えて「何かほかのものを二人で一緒に愛してゆきなさい」と答えていました。各人のお互いに対する心がけ、心の持ち方、等は助言していません。仏教にしろキリスト教にしろ、人間の不完全性を見透かしているようです。
 私たちが通じ合う関係を生きるようとする時、私、個人の心がけ、努力、精進、誠実さ、真面目さ等を積み重ねて通じ合う世界を構築して実現しようという方向性では無理だということを知っておられるということです。通じ合う関係は人間関係だけでは無理なのだということです。仏の目覚めた目で見て無理なものはいかに努力しても不可能ということです。人間の考える解決の方向性は不可能なことを追い求めて、限りなく努力する姿に人間性を見出そうとしますが、宗教的な世界を認めない者の隘路でしょう。宗教的な世界にお育て頂いたものには人間の理想を追いかける理想主義は、なになに中毒と考えると理解しやすいと某大学教授の発言がしっくりします。
 私たちは人間の努力、心がけ、相手への配慮などでは通じ合えないということだとすると、一体どうすれば一緒に生きていく世界を構築することができるのであろうか。仏教はどう教えてくれているだろうか。 仏教の教える基本は縁起の理法です。そして通じ合えない凡夫の私のために説かれた本願の教え、浄土の教えに尋ねてみましょう。
 人間同士が通じ合えないということは、”孤独“ということです。地球上、いや宇宙の中で一人、孤独です(独死独生 独去独来)。この私は一体どこから来たのか、生きることに意味はあるのか、そしてどこに行こうとしているのでしょう。こんなことを思うとき、本当は不安で、苦しく、居ても、立っても居れない地獄なのです。私は救われない存在です。しかし、救われない、地獄の私を目あてに本願、南無阿弥陀仏が起こされていたのです。私の名が呼ばれていたのです。そのはたらきの圧倒的な大きさ、温かさを感得する時、私は仏に頭が下がり、南無阿弥陀仏と念仏させられます。天親菩薩は『世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国』と表白されています。藤原正遠師は「何れにも ゆくべき 道の絶えたれば 口割り給う 南無阿弥陀仏」とうたわれています。
 頭の下がったものは、”南無阿弥陀仏“と如来の呼びかけに、呼応して生きる存在たらしめられます。如来を生きる存在を仏性という。人間同士は仏性を生きる者として、出遇っていくのです。そして、まったくの孤独な通じ合わない人間が一緒に生きる”ご縁“の不思議さ、貴重さ。また、私の隣人は、私を支え、生かし、教え、導く存在、”菩薩“、”仏“として存在(一切衆生悉有仏性)しているということです。
 私が努力して通じ合おうとするよりは通じ合えないという智慧の視点での事実に納得せしめられ、その私に為された本願、南無阿弥陀仏を受け取る時、結果として「通じ会える」世界がもたらされるのでした。私たちは通じ合えない現実にぶつかって怒ったり、愚痴ったりしていますが、しかしそれは心の深いところに、“通じ合えるのが人間だ”と思っている自分、自分の思い通りにならないのは相手や自分の心がけが悪いと思っている自我意識を自分としているからです。もちろん外なる現実に理性的に対応し、処理しなければならないことは言うまでもないことですが、しかし内には深い自我意識が思い違い(間違っていると思っていた自分こそ間違っていた)をしていたという自我意識の転換があって、はじめて成熟した人間になっていく道が開けていくでしょう。

 註1:六神通 (ろくじんつう)は、仏・菩薩などが具得るという6種の神通力(自由自在の超人的で不思議な力の事)。以下の6つを指す。天眼通(てんげんつう):神通力により、ふつう見えないものを見通す超人的な眼。天耳通(てんにつう)ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたり、世間の声のすべてを聴くことのできる超能力。他心通(たしんつう)他の人間に心を知る力。宿命通(しゅくみょうつう) 自分や他の人間の過去世の存在のあり方知る力。神足通(じんそくつう)機に応じて自在に身を現し、思うままに自由に欲する所に出没できる超能力。漏尽通(ろじんつう)"漏"とは「煩悩」であって、現在の生が苦であることを知り、その苦の原因である煩悩をすべて断じて、二度と迷いの世界に生まれぬことを悟る能力。仏教で得られる「悟りの智慧」そのもののこと

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