4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2551)

 私たちが仏教を理解しようとする時、最初の出発点は自分の人生に仏教は必要だろか、仏教は利用価値があるのだろうか、というように考えます。仏法を生きている素晴らしい人との出会いがなければ、世俗の仏教の現状、葬式・法事・観光を中心とした仏教の姿を見る限り魅了は乏しく、自分の幸せな人生を成就するために、世俗的な仏教の中に利用価値を見出すことができるのは稀(まれ)なことかもしれません。そんな現実のなかでは、「阿弥陀仏の本願」という言葉に出会っても頭を素通りしていくだけでしょう。
 仏教、浄土の教えを学んでいくと、お釈迦さまを「仏・覚者・目覚めた者」たらしめたものが阿弥陀仏(弥陀)の本願、すなわち真実であると教えられていることを知ることになるのです。弥陀の本願は光明無量、寿命無量といわれるように人間の知恵・分別で量(はか)ることを超えた光明(智慧)と寿命(慈悲)の世界ですので、人間の分別でいろんな表現手段を使って表そうとしても表現しつくせない圧倒的大きな世界ということです、その大きさは人間の知恵では把握することはできないということです。そういうとそういう物は信じられないとなりますが、しかし、仏法の学び・聞法(法話を聞く)を続けていくと、その光明無量のはたらきで照らし出される人間の姿(すなわち、私の姿、現実)がはっきりしてきます。言われてみれば私の心は仏のご指摘の通り(他心智通)であったと、陰もないように明らかに照らし出すと表現されるくらいです。仏の智慧の目で明らかに見極めるということです、それは諦(あきら)めるという表現に通じる意味です。
 本願は仏説無量寿経の中では法蔵菩薩の願いとして表現されていますが、同時に行(ぎょう)、はたらきでもあるのです。そのはたらき(行)は、力をもっています。お話・法を聞いていくと私の気づかなかったことを(私の心の状態、人間の有り様など)知らされますが、その知らされ方は私についての知識を増やすということではなく、私(人間)の思考の有限性をあらわに気付かされ、思考方法の大きな転回に導かれることになるということです。
 念仏に育てられたご婦人に仏法を学び始めた人が「お念仏を称えるようになると、どういうご利益が与えられますか」と質問されたら、ご婦人は「今まではどうも人目が気になって仕方がなかったが、最近では仏様の目だけが心にかかって人の目が気にならないようになりました。それがご利益であります」と発言されています。仏のはたらきの温かさ(慈悲、無条件の受容)を感得する者は、見たくない自分の現実の姿を知らされたとしての、摂取不捨の世界で、自分に与えられた現実として真正面から受け取り、受容して背負い、世俗的な人の目を気にすることが少なくなり、より積極的な主体性のある生き方ができることになります。それは仏様、ご照覧あれと、仏の前なる生活として取り組むことになるのです(世間を相手の生活から仏を相手の生活へ)。
 世俗の私たちの生き方は“仏教なんかなくても生きていける(我痴)”と仏教を受け取ろうとしません。そんな私の現実の痛ましい姿、実態を悲しまれて、智慧といのちのある存在になって欲しい、智慧といのちを届けたい。その具体的な方法を名前となって届けたい。その願いを本願(根本の願い、本来の願い)といい、具体的には「南無阿弥陀仏」という仏の名前となっているのです(ここが浄土の教えの中心の部分といえると思いますが、これが現代のインテリ《理性、知性をよりどころとして生きている人》には理解しにくいところなのです)。
 私が仏の心をいただいて念仏するとき、南無阿弥陀仏のはたらきが私に至たり届いて、私の上に真実信心として展開され、私があるがままをあるがままに見る智慧の目をかたじけなくも賜わるのです。仏の智慧の見方は、向こう側に対象化してながめるということではなく、自分の身と照らし合わせながらみて、考えていかなければなりません。(このことは私において、どういう意味があるのか? というふうに、いつも私の身との関わりで考えることが大切です)
 私の心が仏の教えに照らし出されることで、自分ではほとんど気づかなかったが、教えられ、気づいてみれば、私の心の奥底の思いをはっきり照らし出し、気づかせてくれるということであったと思えるようになるのです。本願の教え、智慧のはたらきは、自分で自分のことがわからない私たちに、人間とは何者であるかを、仏さまのほうから教えようとしてくださっている教えなのです。(いらんお世話だと言いたいでしょうが)
 自分の見方、思考方法に執われたり、自信を持っている人は最初に記したように、仏教のいいところを取り入れて自分の人生を成就させようと考えていきます。この思考方法は多くの人の取る考え方で分かりやすいです。 しかし、それは自我の執われを超えることができない、狭い思考方法だと仏教の智慧は教えてくれています。私自身も自我意識の有限性と狭さをこれまで何度となく知らされてきました。
 仏教のお育てを受け、じっくりと智慧に触れるようになってみて、人間の思考の狭さ、偏見性、有限性を知らされるのです。理知・分別では、自分自身の現実がなかなか受け取れないのです。人間として生まれてきたけれども、何のために生まれてきたかわからない。いろんな出来事に直面し、悩み、苦しみ、そういうような境遇を抱えている身をなぜ生きねばならんのかと、そこに自分の存在をそのまま受け取れない、人間に生まれた意味、生きることの意味、生きることで果たす使命、そして死んでいくということはどういうことか、そんなことがわからないもどかしさをかかえる私のあり方は、仏さん、諸仏、そしてよき師から見られれば、「痛ましい、悲しい、大悲せずにはおれない」となるのでありましょう。
 私自身もこの世に生を受け、善悪、損得、勝ち負けで明け暮れて、気付けば歳だけは重ねながら、死の足音が忍びよって来ることを確実に実感(縁のある人の病気や死亡に直面)するようになってきました。老病死は仕事の上での関わりの出来事であって、自分のこととしては、そこそこに健康で、体もまだ何とか動き、少々の無理もきく、老病死はまだ先の出来事、できるだけ考えまい、ないことにして生活しようと無意識にしていた私を否応なく現実に引き戻す“はたらき”としてそれらの事実ははたらくのです。
 そうすると、生きているという事実が、不幸であれ、幸せであれ、今日、ここに私が生きているということを無駄にするわけにはいかない、空過流転で何か無駄にしてしまう生き方をしている現実を「君は、それでいいのか」という師の言葉でうながされ、空過してしまいそうな私の生き方、生きていることに対して何か深い責任感を感じることを迫ってきます。「これでいいのだ」と生きている生き方を肯定できない、何か大事なものを失っているのではないかというような責任の感じを持つのです。
 弥陀の大悲は、どんな人の命の底にも宿っている深い完全燃焼して生きたい、生きていることへの責任感、また、生きていることを無駄にしてはならない、生きているということを途中で止めるわけには行かない、との思いと呼応して、何か生きていることの責任を果たそうとする「私」の誕生を促すのです。私の一歩前をいろいろな人(諸仏)が歩き、弥陀の本願に助けられ、弥陀の本願を生きてきた、よき師、友が願い(そういういのちの底に動いている思いを「大悲の願」という、同体の大悲)をかけてご苦労、ご配慮してはたらきかけてくださっていたのでした。その見えないはたらきを感得する私の誕生です。

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