5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2551)

 仏教では深層心理と呼んで、私たちの深い意識の底に清浄な意識の世界(第8識、阿頼耶《アラヤ》識)があることを教えてくれています。その世界は涅槃、空、無我、如、真如、一如、仏性、浄土、阿弥陀仏に通じた世界です。
 そういう世界と私の関係を別の表現ですると、私たちの心の中というか心の底に、真実の生活をしたい、真実のいのちを生きたいという深い願いが仏の眼で見ると存在していると見えるのでしょう、自分ではとうてい肯定できませんが。仏の本願というのは、私たち人間の深い心の底、いのちの底に願い求めているものに応えて説かれていると言えるわけです。自分でも意識できないほど深いところにある願い(真実のいのちを生きたい)に応えているのが仏の願です。人間のそういう願いと全く無関係に仏の方が勝手に本願をかけているわけではないようです。
 また仏教の“縁起の法”では私という存在は、多くの見えない寿(いのち)によって支えられている、生かされている、願われている、教えられている、などという表現をしても不十分なくらいの多くの因や縁が仮に和合して存在していると教えてくれています。それが人間という存在の全体像が見えた、目覚めた、仏の智慧の目で見透した姿だといわれるのです。
 老子の言葉に「知る者は語らず、語るものは知らない」があります。仏教の智慧(光明無量)や慈悲(寿命無量)の世界のように圧倒的に大きなものを、人知で把握できないような圧倒的な大きなものを感得したものは人間の言葉で表現することができないのです。人間の言葉で表現したとたんに、それは人間の知性の限界内にある小さなものになっているのです。感得した者は全体の姿を人間の言葉で語ることはできないのです。もし傲慢(ごうまん)にも語ろうとすると全体が分かっていないということを露呈するだけです。強いてするならばその大きさを讃嘆するか、自分の小ささを懺悔するしかないでしょう。
 「日本の『春』を教えてください」と質問されて、いろいろな表現で説明したとしても、全体を伝えることはできないのです。数万に及ぶ言葉で表現しても最後には全体を表現できない事実に黙るしかありません。本当に全体を感得したものは説明しようとして語り尽くすことはできないのです。得意げに語るものは全体を知らない愚者だということになるのです。知っているゆえに語ることができないのです。
 アメリカとはどんな国ですか、と日本人100人に聞くと101の真実があると言います。アメリカをテレビで見た人、本で読んだ人、短期間の旅行で見た人、1年住んでみた人、20年間住んでいた人、100人の種々の経験によっていろいろなアメリカ像が表現されるでしょう。100人の目を通して表現されたアメリカと、もう一つの本当の真実があるというのです。100人の表現は部分的には間違いないかもしれませんが、全体を表現することはできないのです。
 人間の生死の四苦の解決の道、“真実”に目覚め、悟った釈尊は人間の苦しみ悩みの本質に気づいたのです。その真実に目覚めて仏さんになった存在が我々の世俗の世界の人間、私の現実を見られて、智慧がないために自分で自分を苦しめる結果になっている現実の痛ましさを悲しまれて、智慧のある存在になって欲しい、真実のいのちを生きて欲しいとの願いを起こされ、智慧といのちを届ける方法を考え抜いて選ばれたのが念仏(選択本願、南無阿弥陀仏)だというのです。南無阿弥陀仏は単に手段・方法としての実用語ではなく、存在やはたらきを示す(宿す)根源語と教えていただいています。
 仏の教えなんかなくても生きていける。人間は自分の理知分別で考えて行けば幸福な人生をまっとうできる。そういう意識で、損・得、勝ち・負け、善・悪、好き・嫌い、をしっかり考え(本当は振り回されているのに)て、仏教なしで幸福に生きている人は沢山いるではないか。私は悪いことをしてないし自力で生きており、人には迷惑をかけていない、自分で働いて、自分で得た収入で自立して生きている。そんなふうに普通は思っています。
 人間の理性、知性、分別で生きていくのに十分だ、仏教のいう深層心理なんか、本当かどうかわからないではないかと思っているのです。現代人の理知分別は分別を超えた世界や深層心理をすんなりと認めようとしません。それを仏教では我痴といいます。無意識の領域の第七番目の識を末那(マナ)識といい、我痴、我見、我慢、我愛と特徴としています。我々の意識は末那識に汚染されているというのです(仏教の唯識の教えでは)。
 仏教で言う我慢の「慢」は比較する心です。いつも自分と他人を比べるばかりでなく、自分の中に理想の自分、こうありたいと思う自分をつくり、その自分と現実の自分を比べて見ていく慢心もあると教えてくれています。無意識に自分の考えに執われたり、身の保身をはかり、人と比べて優劣に一喜一憂する私たちですが。その比較する慢心があるかぎり、これではいけない、もう少し立派な私に、と限りなく向上を追い求めて歩むことになります。そうすると自分が自分になる(私は私でよかったと言えるようになる)ことはできないのです。自分が自分になることができない限り、自分に安心できないということになります。
 私という存在のあり方が、ぽつんと孤立してあると思っていますが、本当はガンジス河の砂の数の因や縁が仮に和合して存在しています。多くの人や物に支えられている、生かされている。親しい人に期待され願われているのです。そんな願いに応えるという責任ある存在であることへの目覚めが大切です。自分と他者との繋(ツナ)がりということを抜きにして、自分が自分に安心するということはできないのです。はかることの出来ない(無量)多くの支えによって存在していることに目覚めていくことは自然と私という「欲望する存在」が、“存在の満足”に導かれるのです、欲望の満足ではありません。
 仏の智慧の働きで末那識に汚染された意識の汚れが破られる時(煩悩の闇が晴れた、今、ここが浄土の南無阿弥陀仏となる)仏の清浄真実の世界(浄土)が展開して、現実人生のなかで真実のはたらきを受ける生活が実現するのです。そのはたらきを受けながら、現実の生活が、仏の真実のはたらく舞台となり、真実のいのちを生きたいとの思い(深い意識)が成就していくのです。真実が具体的にあらわれる(目覚めしめられ、気付かしめられる)場にわれらの日々の現実生活がなっていく。仏法によって救われるとはこういうことではないでしょうか。

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