6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2551)

 医療の現場で、高齢者と接する機会が多い私は、いろいろな訴えの背後に直接、ないし間接的に老・病・死の不安があることを感じることがしばしばあります。患者さんの背後にある課題を一部ではあるが、感じ取ることの出来るのは医療での長年の経験と仏教のお育てをいただき、いわゆるスピリチュアルな領域での学びのおかげであると思っています。
 ある80歳過ぎの男性は、「右膝が身体を動かす時に痛い」という、教え子の医師に診察を受けたら「老化現象だ」といわれた。その膝の悪さを愚痴るように訴える。最近は杖を突きながら歩くのが、「世間体が悪い」と悲しむ。また、「体重が減ってきてしわが目に付く」と言う、「身長に合わせた標準体重にはもう5kgぐらい、やせた方がいいですよ、膝にかかる負担も軽くなるし」、と言うと、「これ以上やせると皮膚の張りが無くなり見栄えが悪くなる」と嘆く。同じ年頃の芸能人がなくなったニュースを見て、身近に感じる老・病・死をさびしそうに涙を隠しながら語る。テレビで老人介護の現場の放送に、明日は我が身と身につまされたと涙声で語る。なかなか実現しそうに無いが「家族に囲まれて最後は安らかにむかえたい」とも言うが思うようにならない。立派に育てた息子さんたちは都会に出て行って、当分は帰ってきそうにない。
 浄土真宗の門徒さんだから、「浄土の教え、念仏の教えがうなずけるようになるとそんな取り越し苦労をしなくて、鷹揚(おうよう)に生きることができるようですよ」というと、私らみたいな凡人には難しいという。凡夫との気づきは、本当は悟りのことばと教えていただいていますよと話すが、常識の域を超えられず、自分を凡人と判断する小賢しさの限界への気づきは難しいようです。自分の分別の愚かさへの目覚めが救いにつながるのですが…………。
 浄土の教え、本願の救いは無条件の救いであります。しかし、教えに顔を向けようとしない者にはなかなか響かない。仏教の師は、「雨がざーざー降っていてもバケツが裏返されていれば、バケツの中に水のたまりようがないのですよ」、と教えてくれていた。80数年の分別の生き様が、その限界に気づくことはなかなか困難です。まして分別を超える世界なんて全く考えられないのであります。自分で作ったイメージで自分を苦しめて、受け取れない老・病・死に愚痴を言うのです。法蔵菩薩が見られたら、痛ましい、大悲せずにはおれないのでしょう。そして何とか智慧を届けたいと願わずにはおれないでしょう。 自分を苦しめ、愚痴を言わせるその大元こそ法蔵菩薩の同体の大悲の表れ、自我の疼(うず)き、大きな世界への誕生の陣痛なのでしょうが、そのことに気付かずに、疼き(思うようにならない事実)に愚痴をいいながら振り回されるだけになっているのです。それを超えた仏教の世界の話をしても、自分の我見(考えたこと、見たこと)には自信をもっていて、かたくなに執われを握りしめて手放そうとしません。
 またある70歳まえの元教師は軽い脳梗塞にかかり、入院治療を受けて何とか回復した。退院時の説明で、脳梗塞は治癒したとは説明が無く、症状が改善して、経過観察をしていくと説明を聞いたという。退院後、自宅に帰ったが、再び脳梗塞が発症して死ぬのではないかという恐れを持って、夜になるとまた再発する不安で眠れないという。家人に夜は心配だから横に居ってくれというと、「子供みたいな事を言いなさんな」と軽くあしらわれ、不安が増したという。そんな不安でパニックになり再入院したという。入院すると何となく安心するという、受け持ちの医師はどう対応されているだろうか、老・病・死の不安を受け取れているだろうか。実存的課題、心の不安に配慮しているだろうか。薬で表面的に症状の抑えをはかってないだろうか。医療と仏教の協力が切に求められている。
 人間に関して、誰もが認めてはっきりしていることは、(1)「人間は必ず死ぬ」、そして(2)「今、ここに私が生きている」、ということです。死後の世界を問う思想家たちに釈尊は沈黙で答えています(無記:あるというのも間違い、ないというのも間違いという意味だそうです)。今、ここで死を心配するのは分別の「取り越し苦労」だというのです。現代人の分別では不安を超えた世界、浄土を認めようとしません。浄土は見えない、感じることが難しい、そんな世界は理知的な人間には信用出来ないとなります。でも、仏教では浄土は自我の迷いの破れた「今」の世界だと教えていただいています。 「今、ここで、念仏して、私が浄土を生きていく」展開があるのです。
 理知分別の人に「明日はありますか」と問うと「ある」と答える。では「明日を見せて下さい」と言うと、まさに「キョトンー」として戸惑いを示す。「見えない、感じることが難しい、そんな世界は理知的な人間には信用出来ない」と豪語するインテリが、どうして明日があると確信が持てるのでしょうか。明日は場所の概念ではなく、まだ到来していない「今」のことです。同様に浄土とは自我の迷い、煩悩の闇の破れた、迷っていることが見えてきた「今」のことなのです。才市さんという妙好人は自問自答して「才市、浄土はどこか。ここが浄土の、南無阿弥陀仏」と言われたと聞いています。暗い(将来の希望で生きていた者が未来の老病死という事実に気づいて驚愕する不安)明日を恐れて「今、生きる」か、浄土の中で浄土を目指して感動の中を「今、生きる」かということです。浄土、無限の光の世界へと「往きて生まれる、往生浄土」という教えは、暗くて虚しい死に、新たに輝く意味を投げかけてくれます。
 阿弥陀仏はアミタユース(無量寿)とアミターバ(無量光)を合わせたものです。はかることを超えたモノを「無量」と表現されているのです。圧倒的な大きなものを感得した者は、その大きさに感動するか、自分の小ささに、「参った」と頭が下がるのです。“参った”と頭が下がったところには、結果として私のはからいは自然と無くなっているのです。 自我の殻を自分でなくそうとして困難を窮めていたものが、圧倒的な大きなものに触れたとたんに自我の殻は吹っ飛んで“参った”となっているのです。その大きな世界をなかなか認めようとしない私の理知分別がその大きなものを分断しながら値踏みをしているという“小賢しさ”が我々の在り方なのでしょう。
 「今、ここに私が生きている」という確かなことの中で、阿弥陀仏に触れた(感得)者は「南無」と頭がさがり、阿弥陀仏に“お任せ”(私の思いをひるがえして、教えの如くに生きる)が自然と展開するのです。法蔵菩薩(阿弥陀仏の因位の名)の本願の「念仏する者を浄土に迎え取る」「我に任せよ、必ず救う」に信順するようになるのです。阿弥陀仏の働きの世界を浄土という、有・無、生・死、善・悪といった対立を超え、迷いを離れた「今」、煩悩の闇の姿が見えてきたとき、「今」に開かれる目覚めの世界です。法蔵菩薩が生きとし生けるすべてのものを迎え入れるために建立された真実の世界です。
 圧倒的な大きさに触れたものは、いわゆる奴隷になるみたいに思考停止するのか。その大きさにふれる時は、自分がそれに反抗している姿(思考の継続)においてふれていくのです。理知分別のあり方で、仏法を道具化しているという分別への気づきの中で仏法に触れていくのです。仏教を道具化している私の顛倒(てんどう、逆さまになっていること)の現実に目覚める姿の中で、その大きものに自我の殻が打ちのめされるという緊張関係が「今、ここ」で展開、持続するのです。念仏の教えは救われない自分に気づき、懺悔、念仏で救いが展開するのです。
 「悟り、信心体験とは眠りのようなものじゃ」と、そして「悟り、信心の体験は、それが終わったとき、初めて自覚されるものじゃから。」とあるキリスト者は言う。 迷っていることに目覚めるという姿で悟りは現れるのでしょう。 迷っていることを知る智慧は、何かを知っているという状態ではなく、無知を知るという一つの覚醒、目覚めを意味しているのです。
 仏教は今、ここで老・病・死すらも意味あるものとして受け取り、完全燃焼していく道を教えてくれているのです。「今、ここに私が生きている」この現実に集中して取り組み、今、念仏してしっかり精進していたら(天命に安んじて 人事を尽くす)、済んだ事に未練も後悔もなくなり、まだ来ない未来のことを心配したり、当てにしたり、取り越し苦労しないで、しっかり生きていくことができるのです。

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