7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2551)
無量寿を生きるもの(1)
私が日本の大分県に、昭和の時代に、今はなき両親の間に生まれてきたのは、自分の思い通りであったとは、到底言えません。 宇佐市の田畑家に生まれて、親子、兄弟姉妹、家庭環境、親戚関係を含めたいろいろな関係は自分が選んだというよりは、与えられたものと思わざるをえません。 また、私の肉体的な身体も多くの構成成分によって作られ、それらは多くのいのち(直前までいのちを持っていた物)によって生かされ、支えられて、一時的(無常ということ)に因・縁和合して存在しているのです。 それらも皆、恵まれたものでした。
自我意識ができてから、与えられた周囲の状況に不平、不満の思いをいだきながらも両親に育てられ、公的教育機関で教育を受けました。 成人して社会人となり、伴侶を選び夫婦となり、家庭を築き、そのうち子どもが生まれて、そして子どもは順次成長して、社会人として巣立っていった。 これ等は事実(私の視点で見た)であるが、その多くは私に与えられたものでありました。
私が結婚したことは私が主体的に選び、主体的に行動に移したように思われるけれども、よく考えてみると、不思議にも同じ時代に、比較的に近い地域に命を与えられて、同じ人間として生まれていた。 同じ九州に生まれて、同じ大学、同じ学部に学んだ。 そういう関係があればこそ、ご縁があったのでしょう。
与えられたモノの中なら私が選んだり、決断したモノもありますが、それも与えられた条件、状況の中で選んだ物と言えると思います。 その与えられたモノも、私が自我意識をもって考えるようになったら、すぐに私の体、私の家、私の家族、私の故郷、私の国となってしまっていました(自己中心的な思考の所産、仮の存在である自分を永遠の存在と見誤っている)。 かって、短期間であったがアメリカで生活をした時、小学校1年の長男と、2歳年下の次男がテレビのロサンゼルスでのオリンピックの放送を見ながら日本ではなくアメリカを応援していたのにはすこし驚いたことを覚えています。 当時の子どもたちにとっては与えられた場はアメリカだったのです。そして子どもたちの国もアメリカだったのです。
自我意識は私の体、私の家族、私の国というようになっていますが、その事実を最初から受け取れていたでしょうか。 私は生まれて小学校の3学年生になるまで、隣や、同じ家に伯父、伯母、従兄弟たちが沢山いて、自分の両親や弟、妹は分かったけれど他の人間関係は分からないまま成長した記憶があります。 大学生になるころ、やっと近い親戚の人間関係を教えてもらって把握できたことを覚えています。 気付いてみれば諸々の関係性の中に生きていた、生かされていたということです。 私の身体というけれど、自分で自分の身体と受け取れたかというと、自分の身体の格好、自分の身体の体力、知力をなかなか受け取れませんでした。 もう少しかっこ良く、もう少し体力、知力が上等であれば、等々………と、なかなか自分の現実が受け取れませんでした。 そのために何度、親に反抗しようとしたことでしょうか。
多感な高校生時代は、まさに親不孝の極みでした。 もう少し裕福な家であれば、能力のある子供として産んでくれたら、もう少しましな親の元に生まれたら、教育環境が整っていたら、通学に時間がかからない場所であったら、等々………。 心では本当にそう思っていましたが、親の現実(時代性、社会性、経済状況等)を知ると親に文句も言えず、自分でうつうつと屈折した思いを募らせていたものでした。 今様に言うと、一つ歯車が狂っていたら、家庭内暴力の可能性も十分あったのではと思われます。
日本に生まれたのも不満でした。
学校で資源のない国、人口が多くて国土が狭い、加工貿易をして生きていくしかない、等等、教え込まれれば、資源豊富な、国土の広い、先進国アメリカの情報に煽(あお)られて、「何でアメリカに生まれなかったのか」、と現実を悔やむのです。
昭和40年代頃までは、日本人の大多数は貧しかった。その当時、総理大臣の池田勇人は所得倍増政策を売り言葉として、日本全体がしあわせに、幸福になりたいと思ってまじめに頑張った。 幸福になれるかどうかは私の周囲の状況、条件がそれを決定すると確信していました。 いくらキレイ事を言っても、経済的に裕福であることが幸福の条件だ(所得を増やせ!)、資源が豊かにあれば、それを売って豊かになれる。 貧しいのは所有する土地が狭く、稲作をするにも制限があるからだ。 アメリカのように土地が広ければ土地も安く手に入るはずだ。 耕作面積が増えれば農業生産高も増えるはずである。 しかし、耕作面積に限られた現実で長男として親の後の農業を継ぐなんて、なかなか明るい展望が開けない‥‥‥。 自然を相手の仕事は不確実性があり、年に数回の収穫期の収入だけという不規則性があり、私の切実な思いはこの現状を脱出したい‥‥‥。
学歴や専門知識があれば企業に就職してサラリーマンとなり、安定した収入が得られるだろう。 経済的な豊かさを最優先課題として日本全体が動いたように、私もそう考えていました。 経済優先の考えに競争原理・市場原理の中で教育は実学と呼ばれる利欲を追い求める学問と考える傾向が強く、いや他人事ではなく私がそう考えていたのです。 欧米からはエコノミック・アニマルの汚名をつけられ、日本の家屋はウサギ小屋だ、と冷たい目でみられて‥‥‥‥。 文化的なこと、心の豊かさなんか考える余裕を私は持っていませんでした。
清く・正しく・美しく生きるなんて、生きるのに汲々としているような貧しさであればそんな世間向けの顔は、どうでもいい、本音は物質的な豊かさを私はとりたい。 豊かでなければ人間関係もうまくいかないではないか。 貧しければ異性にももてないではないか。
私を取り巻く周囲の状況が私の満足度、幸福度を決定する。 政治経済、社会制度をよくして外の条件を良くしていくことが大切だ。 そして、社会的、経済的な指標で、如何に上の地位に自分を位置させるかの競争だ。うまく立ち回れた者は人生の勝利者、成功者、運悪く日の当たらない状況、条件のもとに生きる者は落伍者、敗者だという思いを持っていました。 国語の試験であまり点数が取れない私は、点数が取れないことが、その科目の好き嫌いに出て、文化的なモノ、心の内面性なんて関心を示さず、実利を追いかけようとしていたのです。(仏教で言うと、まさに餓鬼、畜生です)
そんな私には与えられたモノで、自分にとって好ましいもの、利用価値のあるもの、都合のよいものはすんなり受け取ります。 受け取っても、それにお礼も言わずに我が物顔で、恩も感じません(恩なんて私にとって死語でした)。 与えられるものは当然のことだ、私は頼んで産んでもらったのではない、被害者なんだから(独りよがりの被害者意識)、いや与えられたもの以上のものが欲しいと不平・不満をいう。 与えられて無いものは、うらやましがり、現実に怒りの文句をぶっつける。 そしてないものを無性にほしがる。 与えられなくても、あわよくば自分のもの取り込んで利用しようという根性です。(与えられない物を自分のモノにするのを偸盗(ちゅうとう)という)
我々の理知・分別は自分の現前の事実・状況を受け取れない、引き受けることが出来ないことが多いのです。仏説無量寿経(浄土の教え、本願の教え、念仏の教え)は人間の理知分別を破って、生も死も(人生全体を)引き受けることのできる無量寿に生きる者へ転換せしめる教えと教えられています。(続く)
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