8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2551)

 無量寿を生きるもの(2)

 宗教の「宗」という意味は中国の天台大師智(ちぎ)が「宗とは要(かなめ)なり」と表現しています。真宗と言うことは生きることの要、一番大切な中心という意味が「真宗」という意味です。浄土真宗という言葉を親鸞聖人は宗派の名前として言われたことは一度もありません。浄土とは場所の概念ではなく、迷い、理知・分別に執われている自分に目覚めた「今」に開かれる世界です。目覚めの場が浄土です。場所の概念でなく場というのは「今、ここ」という意味での場です,目覚めの時と言った方が適切かもしれません。世俗の世界を生きる我々に一瞬一瞬、陰なく照らし出す無量の光が、今、ここで、私に当たり、私が転じられる場、時のようなものでしょう。
 理知分別で効率、能率,役に立つ・立たない、迷惑をかける・かけない、能力のある・ない、のモノサシで自分を内外から律しながら、自分の思いを実現しようとして取り組み、都合のよいものは受け取り、当然の如くし、恩なんて思いもしない、都合の悪い物は拒否し、それが自分自身の事だと運が悪いと愚痴を言う、結果として自分を傷つけ、他人を傷つけて生きることになっています。 その分別を拠り所として生きているわれわれは、その思考の延長線上で歳を重ねていくと、迫り来る老・病・死が愚痴や腹立ち、不安となり、その現実をなかなか受けとることができないことになります。
 自我意識は結果として思い通りにならない現実に不平・不満を言いながら、不安の中を暗く生きていることになってないでしょうか。そんな私を痛ましく思い、大悲して、救わずばおれないと、菩薩は深い熟慮のうえで、智慧といのちを届けたいとの本願が、南無阿弥陀仏という名(名前、方便)となって、具体的に準備されていたのでした。本来ならば私が身と心を修めて仏の世界に近づいていかなければならないところを法蔵菩薩が私に代わって修行してくれ、用意をしてくれていたのでした。あとは私がその提案、はたらきを受け取るか、受け取らないかの決断だけですよ、というところまで周到な準備がされていたのです。(この部分の話が、あまりにもうまく出来すぎていて、表面的にはあっけないぐらい、単純明快であるために現代人には浄土教が受け取りがたいものとなっているところです)
 よき師は、師の一歩前を歩かれた善智識(よい師、よき友)に名の由来(南無阿弥陀仏の生起本末)を教えられ、諸仏の限りない広大な心に触れて感動して、その名をほめ称(たた)え(称揚讃嘆)て、念仏を勧めて、私の一歩前を念仏して歩まれる人でした。よき師(善知識)の人格に触れ、私が愛され、願われ、配慮されて、ご苦労をかけていることを感得する時、私も又教えを聞いていこう、念仏して生きていこうと勇気を持って踏み出すことになるのです。ここに在日浄土人(日本に住み、浄土を生きる人をこういう名前で表現した方がいたので借用)としての私の歩みが始まるのです。
 浄土を得て後に初めて我々の人生が、本当に人生らしく光と意味とを持ち始める〔信国 淳師の言葉〕のです。それは浄土、仏のはたらきの中で人間として成長・成熟して、はじめて自分の人生全体を自在に受け取ることができるようになるからです。その結果、その人にしかない輝きをもった花を咲かせることになるでしょう。自由自在の自由とは決して自分(自我意識)のわがままを行使する権利としての自由ではなく人生を自在に受け取る(人生に無駄なものは一つもない、と私の仏道成就のご縁として受容する)ことができる自在性を示しています。そこには。その人らしい完全燃焼の歩みが自然と展開していき、その人にしかない輝きを発揮することになります。
 真実の信心(無量寿、無量光を生きる存在を信心の人という)はこれまでの古き人生(理知分別に執われた生き方)に決別して、これから新しい人生(智慧による自在な生き方)を生きるものとなること、自力迷妄の流転の人生に終わりを告げ、如来の本願に生かされて生きる人生を展開することになるのです。
 私の現実が素直に受け取れずに、好き嫌いをいい、もう少しましな現実であって欲しかった。また世俗の世界を悪戦苦闘しながら、夢・幻を追い求める。定年が近づけば、もう少し辛抱すれば、自由になれる、もう少しの我慢だと頑張るが、定年を迎えてみれば自由を謳歌するのは3―6か月ぐらいである。あれほど夢見た自由も案外あっけないものだと身に染みて分かるようになる、という感想をよく聞かされる。そうすると自問する、私はいったい何をしてきたのだろう。いたい何をしたいというのが私の本音であろうか。私とはいったい何だろう? そんなこと考えても仕方がない、分かるはずがないと、また世事に埋没していく。
 我々の感情はすぐに変化します。これは感情が一時的なものであることを示しています。私たちが永遠だとみなしている、自我意識の「私」というものは、単なる幻影であり錯覚にすぎないというのです。嬉しい時には「私は嬉しい」と言い、悲しいときは「私は悲しい」と言い、怒ったときには「私は怒っている」と言います、しかし、この「私」という言葉は、ものごとを指し示すときに使う指示名詞に過ぎないのです。喜びや悲しみ、怒りを感じている固体としての確かな「私」はどこにあるのでしょうか? 頭のなかでしょうか、心臓でしょうか、それとも魂(?)でしょうか? 注意深く観察してみれば、永続する確固たる「私」というものは無く、一瞬一瞬生まれては滅している心と身体の流れの一時的現象があるだけだということがわかります。
 永続する「私」というものがあるならば、その「私」は、変化することなく常に同じ状態で続くはずです。歳をとることもないでしょう。しかし、実際には、ものごとは常に変化しています、無常・無我が真実の私の姿なのです。
 真(まこと)という無量寿・無量光の世界は、私の不実、不真実を教えてくれます。自我にとらわれている私に本来的には無我であることを知らせてくれます。私の自我意識が非本来的な在り方(無駄話、好奇心、曖昧性を特徴とする)をして空過していることを、不自然な在り方に執われて苦悩している事実を智慧によって見抜き、私の現実を気づき、目覚めの智慧の視点で受け取れるように導き、本来的な在り方(深く思索し決断して、真正面から受け取り、取り組む)、自然な在り方で自在に生きる道に私を立たしめるのです。
 私がテレビをあまり見なくなったのはテレビを見る以上の面白いこと、楽しいこと、大切な時間を知るようになったからです。週刊誌的な日常性(市場に群がるハエの喩の如く。お金、男女のこと、勝ち負け,成功・失敗、等々に好奇心をもつ)からすこし距離を置くようになったのは、その空しさ、不実性を知らされ、仏法の真実性、圧倒的に大きい仏の働きに触れ、心の豊かさ、安らかさを感得するようになったからです。
 l浄土の念仏の教えは人間の理知分別の傍観者性をうち破って、人生全体を引き受けることのできる無量寿(南無阿弥陀仏、念仏)に生きる者へ転換せしめる教えです。

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