9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2551)

 地獄を見た(1)

 聞法の先輩から、「仏さんの光に照らされて私の心の闇が破られると、さらに深い闇が見てくる」、という趣旨の話をお聞きしたことがあります。その時は、エツ、闇はなくならないのか!、と何か漠然とした不安を感じた。我々の予定概念では闇が晴れれば明るい世界が出てきて安定したものへと導かれると思っていたのに。
 梶原敬一師(小児科医師、僧侶)の「生きる力」(東本願寺出版、2006年)を読んでびっくりし、教えられたことは、まさにさらに深い闇、「怖い世界を見てしまった」という印象でした。仏教では、仏の徳を「六神通」(人知を超えた仏の自由自在な能力)で表し、特別な能力を備えているといいます。その中に「他心智通」があります。人の心、考えていることが分かることを大きな能力としてあげています。無量光(仏の智慧を表す)は私の心をかげなく照らし出し見透かしているというのです。逆にいうと私たちは人の心が分からないのです。自分の心を知り通しているかというと、知らないと所が残るのです。いくら反省を繰り返して自分の心を見つめていっても最後には、自分を反省する心がわずかに残るのです。その残った心は??、その最後のところに邪見・矯慢がしぶとく潜んでいると仏教は言い当てるのです。自分ですらわからないのですから、隣にいる他人の心も、考えていることもほんとは分からない、一緒に住んでいても、わからないというのは、一緒にいても人生を共に生きる人ではないということです。それはさびしいことです、いや恐ろしいことです。それは孤独(地獄の感覚)と言うことです。
 自分自身の心を知ってくれて、自分がその人の心を知った人とだけが本当に“一緒に生きる”ということができるのです。同じ屋根の下で生活する家族、一緒に育った兄弟姉妹、同じ釜の飯を食べた寮生、等はそれに近い関係を持っているものだと思われます。しかし、近い関係にいる者同士ですが、仏の光に照らされ、仏の我々の心を知り通していることを気づかされるとき、人間同士は知りあっていても、それはほんの一部であることを気づかされます。人間同士ではお互いに知り通すことはできないのです。いや、分からないから平気で共に世間生活ができているのでしょう。
 私たちにとって、そこにいる本当の存在は如来だけということです(本当に通じ合って一緒の関係は如来と私の関係だけだということです)。無量光で陰なく照らし出すはたらきこそ仏、如来です。私が本当に出遇えるのは如来だけです。私のことを本質的に知り尽くしているのが仏、如来だと言うことです。(仏法を学び、よき師のお話しを聞いて行く内に、仏教の智慧の人知を越えて居るとしか思えない深さ・広さを知らされることになります)
 私の周囲の目の前にいる様々な人たちは、一緒にいるが一緒の道を歩く友ではないということです。隣にいる人は何を考えているか、いや私が考えていることが私の周囲の人に知られたら、私は恥ずかしくていたたまれない、その場を逃げ出さないとなりません。家庭だと家族との間に摩擦が起こり、冷たい寒々とした関係になるでしょう。一歩外に出たら何をしているかわからない人、「渡る世間は鬼ばかり!」という存在同士が一緒にいると思うと不気味です。
 我々の分別は本音の所でそういう発想をしているのです。それがなければ世俗に順応して小賢しく生きていけないことになるかもしれません。それを示すのが次の新聞記事です。編集手帳(2007年7月14日読売新聞)「江戸時代の豪商、鳥井宗室(そうしつ)が跡継ぎに宛てた遺言状が残っている。日本歴史学会編『鳥井宗室』(吉川弘文館)に収められた全文を読んでいると、ため息がでる。賭け事はするな。縄の切れ端も捨てるな。飯を炊くとき、薪をを使いすぎるな……と、このあたりはいいとして、『(使用人)下人・下女にいたるまで皆々,盗人と心得べき候』までくると鬼気迫るものがある。末尾では、以上の項目を固く守ることを約束する誓紙をこしらえ、棺桶に入れよ、と命じている。おしなべて富める人ほど、お金に執着するものだとは聞いていたが、その執念にはただ恐れ入る。棺(ひつぎ)に納まった後も遺産の目減りを心配する人がいれば、……後略…………。」
 あきれると言うか、ビックリすることができるでしょうか。自分の内面を深く見たときに同じような思いを部分的に持ってはいないでしょうか。
 如来と私の関係、私のことを知り通している仏さんを考えた時に見えてくる、世俗での他者の恐ろしさです。通じ合えない孤独を体感した時、それは「地獄を見た」といわざるを得ない“衝撃”でした。「地獄は一定住みかぞかし」という言葉や何度も聞かせていただいていましたが、あらためて闇の深さをさらに知らされた時、身が震えて、身がすくむ思いがし、念仏せずにはおれませんでした。そういう関係をあらためて考えてみると、理性知性分別の視点は、「知らない大人の甘い誘いに乗ってはいけませんよ」と小学生に指導するように、「渡る世間は、簡単に人を信用してはいけません、騙(だま)されないように」注意しなければ、と見る視点です。そのことについて、私の家族は、私の兄弟姉妹は例外だ、と傍観者的に見ていたのです。そうではないのです、なぜか? 私の心の中を仏の光に照らされて見れば、鬼とは他人ではなく私の姿でした。
 地獄、餓鬼、畜生、煩悩具足の凡夫は三悪道といい、救われない存在なのです。いずれにも行くべき道の絶えた存在です。そんな私を目当てに、浄土の教え、本願、南無阿弥陀仏は、呼びかけられていたのでした。救われる資格のない私、私一人のために、智慧といのちを届けたい、あなたの信心となろう、念仏となろうと、本願がかけられていたのでした。本願のかたじけなさに“南無阿弥陀仏”と念仏せざるをえません。
 しかし、お互いが縁次第では何をしでかすか分からない私たちですが、その恐ろしさを考えても、なおかつ、この世のご縁で、そこにいる人と一緒に温かい関係で生きたいと思う。一緒に生きるものでないものが、衆生同士として、友として生きることができるか。
 私たちは如来によって利他されるものとして、如来に対して他者でしかない。如来に対して、みんなが他者としてしかない。私があなたを救うのではなくて、私とあなたは如来を介して他者同士として出遇うといっているのです。
 如来と私だけの関係ですと、「汝、小さな殻を出て、大きな世界を生きよ」、「南無阿弥陀仏」と願われ、「あなた」「汝」「友よ」と、私は仏からよばれている者です。如来は、親が一人っ子を思うがごとく、一体化して自分のこととして考えて働いているのです。これを「私―あなた」の関係という。
 私の現実は、周囲の者とお互いに他者として出遇う。本当に一緒に生きる存在ではない、利用しあう関係、「私―それ」、相手は3人称的存在、物や道具のような在り方で見る存在ということです。私の周囲を物や道具としてみる自分の冷たさを徹底して、見せ付けられた時、まさに”地獄を見た“、”鬼であった“という衝撃です。ある識者が第一次、二次世界大戦などを念頭に20世紀は戦争の時代であったことを象徴的に「20世紀は地獄を見た」と表現されていましたが。20世紀でなくとも人間の仏教抜きの理知分別での世俗生活は、”愛ある生活“と言いながら縁次第では「地獄を生きる」というあり方にならざるを得ないのです。仏の世界から、如来が、まさに地獄に住む私を痛ましく大悲されて起こされた”我が名を称えよ“の本願、仏の光に照らし出され、地獄を見た、いや地獄に住む私を自覚させられ、南無阿弥陀仏と念仏が口を割ってでる時、そこに不思議にも私たちは如来のはたらき(浄土の世界)を感得させられるのです。(続く)

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