10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2551)

 地獄を見た(2)

 ある方からかって介護相談を受けたことがあります。(H.Y.さんより 2004/4)  私の母は、満87歳で、要介護度4の認定を受けております。75歳頃の時、膝の骨の病気に罹り進行は止まりましたが、以降、徐々に足が不自由になり、よく転倒して鎖骨、左腕上腕骨、背骨の圧迫骨折などを繰り返しました。4年前の背骨の圧迫骨折後は、いよいよ一人での歩行が難しくなり、ヘルパーさんやデーサービスを利用させながら、夜は、私が勤務を続けながら在宅で介護しておりました。しかし、身体的不自由さに加え、軽い見当識障害も出始め、勤務を続けながらの在宅介護が難しくなりましたので、在宅介護に専心するため3年前に退職し、ヘルパーさんやデーサービスなどの援助を受けながら、空いた時間に執筆などをしつつ介護を続けてきました。―中略― 
 父は35年前に亡くなっておりますし、私は一人っ子なので、介護は全て私一人(ヘルパーさんなどはお願いしていますが)でやっております。夕方から夜、土日休日は、介護から手が離せないので、専心介護2年目くらいからは、自由度のなさに精神的にかなり疲れを感じておりました。―中略― 痴呆も徐々に進行し、肉体的にも、精神的にも段々介護も、負担が大きくなっておりました。いろいろあって一人での在宅介護も限界かと感じておりました時、ケアマネージャーさんや家内、息子達も、私が共倒れになることを心配してくれ、老人保健施設への入所を勧められました。母が嫌がるので、無理に入所させることに罪悪感も感じ、躊躇しておりましたが、疲れがたまって居ることも確かだったので、3ヶ月の短期入所と言うことで○月○○日に、母には膝のリハビリと言う説明で入所させました。最初の10日間ほどは、「帰りたい」との訴えはあったものの、比較的穏やかに過ごしてくれたので、少し気分的に楽になり掛けていたところ、2週間目になって「帰宅願望」が爆発し、まさにパニック状態になり、説得に当たった施設職員に乱暴を働いたということで、呼び出しを受け出向きましたが、興奮状態でどうにもならず、むしろ私が行ったのに連れ帰ってくれないということで、私に怒りが向き、私にも殴り掛かって来ました。―中略―、
 老人保健施設での預かりは無理といわれています。私個人としては、そんなに嫌がる母を施設に入れておくのは忍びなく、私さえ頑張ればとの思いから、直ぐにでも連れ帰って在宅介護を再開したいと思ったのですが、共倒れを心配する家族の反対を受け、退所命令が出るまでは強行もできず、施設にお預けしている状況です。退所命令が出れば、在宅介護か、病院入院しか選択肢はないのですが、斑呆けで、よく分かる部分も多いだけに、今の時点で病院に入れてしまうのは忍びなく、どうしたものかと悩んでいます。いっそ、本当に呆けて、場所も、人も分からなくなれば、どこに入れてもよいのですが、本当に難しい段階なのです。母にパニックを起こさせるほどの嫌な思いを我慢させても、共倒れを防ぐためには、仕方ないのでしょうか。施設や病院にお預けすれば、肉体的には楽ですが、母が嫌がる限り、精神的な苦しみは却って重いのです。それなら多少は、自分を犠牲にしても頑張ってやるべきなのでしょうか。
 人として、子として、どうすべきか苦しんでいます。―中略―老人保健施設を退所させられた場合の選択肢としては、在宅介護を再開するか、老人病院に入院させるかしかございません。母を老人病院に入院させれば、『帰宅願望』がなくなることは考えられませんので、薬剤で抑えることになるのではないかと思います。―中略―
 先生に質問ですが、家に帰りたがり、嫌がるのを無視して置いて帰って来ることは、親不孝なのでしょうか。周りの人は、「○○さんは、これまでに十分孝養は尽くされましたよ。今のお母様は、ご病気なのだから仕方ありませんよ。きっと分かってくださいますよ」と言ってくださいますが、母から「世話をしてもらって感謝していたのに、この年になってこんな仕打ちを受けるとは思わなかった。恨むからね」などと言われると、このままにしていて良いのかと悩んでしまいます。病気なのだから、嫌がっても入院(入所)させるのは仕方ないと割り切っても良いものなのでしょうか………。
 誠実に対応すればするほど、ジレンマの中に落ち込みます。これと似た内容が次の記事です(亀井ヒロシ氏の同朋新聞の記事‘92年4月号)。
 滋賀県木之本町、いわね書店の岩根ふみ子さんのお話。 一昨年、実家のお母さんが老人性痴呆(認知)症の末に、87歳で亡くなった。3年間の介護で、年長の兄一家ばかりか、5人の兄弟が振り回された。交替で泊まり込みの看取りに当たった。正直言って老母の体調が衰え、食が細ると「もうまじか」と眉をひらき、回復して食が進むとしょげたりしながら、「亡くなったお父さん、何してはるやら、早よう、お迎えに来ればいいのに」と呆けた母に向かって、口に出していたという。その葬儀の日、岩根家の手次ぎ寺で、いつも聞法に通っている明楽寺の藤谷住職から長文の弔電が届いた。
 「お母さんは老いた身をあげて、せいいっぱい私たちの中にある地獄をえぐり出して見せて、世を去られた仏であると思われませんか? 先に逝かれたお父さんは『おまえ、御苦労であった』と迎えられたでしょう。明楽寺住職」 ふみ子さんは息をのんだ。「私たちの地獄をえぐり出して見せてくださった、老いた母は仏でなかったか」 と問われたのだ。自分の胸に去来した「これがいつまで続くか。早く死んでくれれば----------」 の思いが,あらためて照らし出された。ふみ子さんは兄弟そろっているところで、この電文を皆に聞かせた。私の内の地獄、「兄ちゃん姉ちゃん。早よう死んでくれたらいいのにと思わへんかった? 私は思った。思わずにいられへんかった」と、自らの“親殺し”五逆の大罪を告白した。全員がうなずいてくれた。みんなの“地獄“をそこでひしと学ばされた。
 ホッとして肩の荷がおりた思いの葬儀の場が、深い慙愧から、ひいては自我放棄の瞬間にまで転ぜられた。転ぜしめた老母はまさしく仏だった。「仏法を聞いて、いつもこの私が転ぜられるのです。自分本位の計算ずくの意識が転ぜられていきます。それを明楽寺の聞法会で住職からいつもいただきます。実母の死も大きな機縁でした」
 私たちは理知分別をはたらかせて現代の世俗の世界を生きています。家族・職場・地域社会で人間関係に配慮をしながら、協力して助け合って生きています。そこでは自分の意識は、相手への思い・配慮、して上げたこと、そして相手からどう思われているか、してもらった事等々を考えながら周りの人たちと如何に折り合いをつけながら生きていくかに苦慮することになります。その考え方は、「私―それ」、すなわち相手を物や手段・道具の位置で考えることになります。すなわち、私のための………、私にとって………、という思考です。
 そんな中で切っても切れない親子関係を誠実に対応(「私―あなた」の関係)しようとすればするほど、自分が潰れていくことになりかねません。自分が傍観者であることを許さないのです。そのことを通して、仏の光に照らされ、自分の心根の地獄・餓鬼・畜生のあり方に気づくことになります。
 そんな私のあり方を痛ましく、悲しまれた仏は、人間の心を見通しておられ、私に「友よ、小さな殻を出て、大きな世界を生きよ」、「南無阿弥陀仏」との本願がかけられていたのでした。かたじけなくも私一人がために仏から働きかけられている(我が名を称えよ、念仏する者を浄土に迎え取る)ことへの驚き、目覚めを通して、不思議にも南無阿弥陀仏と念仏で、智慧といのちをいただき、いのちを回復する歩みに導かれて行くのです。(続く)

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