11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2551)

 地獄を見た(3)

 詩人、石垣りんの詩集「表札など(S43.から)」に「くらし」と題した詩があります。

    「くらし」  石垣 りん

  食わずには生きていけない
  メシを
  野菜を
  肉を
  空気を
  光を
  水を
  親を
  きょうだいを
  師を
  金もこころも
  食わずには生きてこれなかった。
  ふくれた腹をかかえ
  口をぬぐえば
  台所に散らばっている
  にんじんのしっぽ
  鳥の骨
  父のはらわた
  四十の日暮れ
  私の目にはじめてあふれる獣の涙。

 自分の動物性(仏教では畜生)に目覚めた懺悔(仏教での読みは「さんげ」)の表白と受け取ることができます。また、私たち人間の社会が本当に人間の社会になっているか、を考えさせる詩があります。
それは「一番好きなもの」と題する関本理恵(18歳)さんの詩です。

  「一番好きなもの」   関本理恵

  私は高速道路が好きです 私はスモッグで汚れた風が好きです
  私は魚の死んでいる海が好きです 私はゴミでいっぱいの町が好きです
  殺人、詐欺(さぎ)、自動車事故が好き
  そして、何より好きなのは 多数の人が 涙を流す 血を流す 戦争が大好きです
  飢えと 寒さで 戦って死んでいく姿を見ると
  背中がぞくぞくするほど 楽しくなります
  毎日毎日 大人が 子供が 生まれたばかりの赤ん坊が
  次から次へと 死んでいるかと思うと 心がゆったりします
  歴史を歴史と感じ 過去を過去として思う
  無感情な 時の流れに、自分自身にたまらなく喜びを感じます
  こんな私を助けて下さい 誰か助けて下さい
  たった一粒でもいいのです こんな私に 涙というものを 与えて下さい
  たった一瞬でいいのです こんな私に 尊さというものを与えて下さい
   私の名前は 人間といいます

 自分の姿を客観的に知ろうとして私たちは自分の行動、心の動きを反省して考えます。そして、よりよい方向を目指そうとして、その反省の心をさらに反省する-----、しかし、反省を繰り返す意識の奥底の内面の“私”は最後まで残ります。最後の“私”のところに、我見・邪見が潜んでいると仏教は教えてくれるのです。仏の光に照らしだされて初めて気づくことはびっくりする経験であるといえるでしょう。
 我々の目、肉眼は外を見るために機能するようになっています。その目の機能を補う、電子顕微鏡から天体望遠鏡などの種々の方法を人間の英知は発明して作り出して来ました。一方、私の内面、心を見る手段はまだ人間はほとんど手に入れてないと言っていいでしょう。しかし、釈尊の悟り、目覚めの内容をお経の中に尋ね、その内容を知れば知るほど、聞けば聞くほど私の心を、いや人間という者の心を見透かしているとしか思えないような人間の内面性に光を当てた人間理解の事実に圧倒され、感動します。
 仏の教えに照らし育てられるなかで、物事を見る眼も仏の光に照らし育てられていたことに気づきます、そして、照らし育てられていた目で見える、照らし出された私の姿、私の現実は、仏の言い当てた(教えてくれた)ことが本当にお見透しの通りでありました、と納得させられるのでした。いつのまにか知らずのうちに自分で造りあげた世界、我見・邪見。学校教育で育てられていた自我の殻が仏の智慧(無量光)によって照らし破られ、ひるがえ(転回)させられるということでした。
 前記の詩は自分の現実の気づき、目覚めに近い感覚を詩に表現されているのでしょう。それは私の愚かさ(私は理知分別で物事を正しく判断できると傲慢になっている)、仏法無視・無関心で示される私の内面の闇の深さ(仏の智慧より偉くなって、逆さまになっている私の分別の在り方)であり、その闇の深さが引き起こす私の迷いの事実の姿だということでしょう。
 我々が人間性を回復するには、私(人間)の努力・精進だけでは限界があるということです。仏の心に触れていく生活の中で自我の殻が破られていき、仏の智慧と慈悲のはたらきを感得し、本来のあり方、自然の在り方に戻されていくのでしょう。
 涅槃経に如来と一緒に生きる存在を仏性として説かれています。仏性とは「一子地」と言われます。親にとっての一人の子どもと親子関係で喩えています。子どもは一人で生きるのではなく、親と一緒に生きている存在であるということです。仏を無視する私が、仏から、「あなた!」と一人子のように名を呼ばれている。呼びかけを感動を持って受け取る者は仏と共に生きる存在としてお互いに出遇っていくことになるのです。救われる者と同時に救いを拒む者(「五逆誹謗正法(註1)」という存在として如来に出遇っている者)です。「私―それ」の関係を生きる者同士が、仏から大悲されて「汝、小さな殻を出て、大きな世界を生きよ、南無阿弥陀仏」と人間性を回復することを願われ、働きかけられているのでした。
 仏のはたらきを感得するとき、あなたの中にも、私の中にも、はたらき(如来)を受けつつ生きる者(具体的には念仏して生きる者)として出遇う、これを仏性と教えられています。如来と生きる者(「私―あなた」の関係を生きる者)同士として、私たちは出遇うのです。
 如来と一緒に生きると言いながら、如来に背き、法を誹謗する存在としてしか、如来と一緒に生きられないという矛盾的存在として世俗的存在の私はあるのです。「五逆誹謗正法」の自覚こそが、私自身を如来にかえして、如来と共にある人々をもう一度一緒に生きる友として再発見させてくれる力だということです。その力は、如来から起こってきた力です。その力、他力を受けた者は、五逆誹謗正法を自覚する力となると同時に私に生きる力をもたらすのです。私たちは、悪人としてしか生きられない(地獄の感覚)ことが自覚されたときに、私たちのいのちが、与えられたものを完全に燃焼させて生ききれるまでに生きられる力となって与えられるのです。
 「生きる力」(東本願寺出版)の著者、梶原敬一師は次のように言っています。
 生きる力を持って死んでいくというのは戦中の特攻隊も、若者が生きることを求めて死んでいった(自爆テロ、等で抗議を意図して死んでいくのも同じ)。そういう形で生きる力を強く求めていくことは、結果的には、生きることを本当は完成させてくれない。生きることで見いだそうとしたことが、見いだされないまま終わってしまうのではないかと思うのです。生きることと死ぬことが一つのことだと言ってしまいますと、生きることが死ぬ力として私たちに自覚されてしまう。それは、悪の自覚に立った生きる力ではないのです。ですから、死に方が違うのです。五逆誹謗正法の自覚に立った時に出てくる生きる力と、自覚しないであらわれてくる生きる力とは、質が違うのです。

 註1;「五逆誹謗正法」とは、:「五逆」は父、母、出家者、仏を傷つけ、求道者の和を乱す。「誹謗正法」は仏教なんかなくても生きていけると仏法を無視し、粗末にすること

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