12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2551)

 ご案内

 仏法のお育てをいただくということは頭に仏教の系統だった知識を増やすということもありますが、知識の蓄積に留まらず、大事なことは智慧の光に照らされて自分の姿、愚かさ、小賢しさに気づかされていくことであります。また仏教を生きている人の言葉、その身体全体の雰囲気から暖かくもあり、厳しくもある感化をうけるということも非常に大切なことであります。その感化を受けることが積み重なり、仏の働き、智慧の視点を身体全体でいただいていくようになるのでしょう。仏の心・働きをよき師・友を通して感得し、(僧伽(サンガ、求道者の集い)という場のはたらきにも感銘を受け)、そのうなずきを仏教の知識はあとから理知的に納得して構築していく取り組みであるように思うのです。
 しかし、理知的な取り組みは対象化というか対象論理の発想の限界につかまり、よく思考したり、全体を見渡しているつもりでも、結果として自分のことが思考の中に入ってなかったり、先入観や我見(註1)に執われていたり、全体が見えてなかったりしている私の現実を限りなく照らし出されてビックリすることがあります。
 この9月に故細川巌先生のお膝元の巌松会館の特別土曜会に大谷大学の延塚知道先生をお迎えして2泊3日の聞法の集いがあり、久しぶりに参加しました。直接お話しをお聞きした、同時にその録音のテープを繰り返し聞かせていただき(私は車の中で運転をしながらよく聞きます)、上記のような内容の教えられることの多いご縁であったとよろこんでいます。
 我々の習性として仏教を学ぶということはいつの間にか、知らないことを学んで知る、知識を増やすという学びになってしまいがちであることをあらためて教えられました。知識をいくら増やしても、それは仏法を聞いたことにならず、物知り、博学になるだけです。仏法は自分の姿を照らし出され、自分の殻を照らし破るということにならなければ仏法の聴聞にならない、ということは今まで何度も聞いていたつもりでいましたが、このたびもそのことを思い知らされました。それくらい我々の自我の殻は厚く、しぶといのですね。
 仏法を聞いていく歩みの中で人間の陥りやすい執われ、すなわち四煩悩(我痴、我見、我慢、我愛)中の我見(自分の考えや思いへの執われ)を知らされて、いつの間にかそれを乗り越えられるものだと思ってしまっていました。菩薩になっていく歩みが仏道だ、成熟して立派になっていくのが仏法だという我見にいたのでした。仏教の智慧を学んで我見を超えるというところをいつの間にか、仏教の智慧を利用して自分の力で超えることが出来るという考え違いに陥ってしまっていました。また、仏教を学ぶとは自分が立派な菩薩みたい(自利利他の働きをする)になっていく教えだといつしか考えてしまっていました。大乗仏教は全ての人が一緒に舟に乗って共に救われていく喩えでいわれるような教えです。仏教を学んで仏教の智慧・無量光によって照らし育てられ、立派になっていく、みんなが菩薩みたいになっていき、仏さんに近づいていくのが仏道、まさに菩薩道が大乗仏教だという思いをいつしか想定していたのでした。
 仏教の教えのように実行できる人だけが救われる道が仏道だとすると、出来ない人は救いから除かれることになります。立派になって菩薩道を歩む人が救われるとすれば、多くの人は救いから除外されます。菩薩みたいに立派になっていく道が大乗仏教だとすれば修行のできる人、選ばれたエリートだけが歩める道ということになるでしょう。その発想は世間道に似ているからみんなも理解しやすし、納得できることになります。しかし、そこでは私は「できる人」か、「できない人」のどちらに入るのでしょうか??。
 糖尿病で治療に難渋している患者さんがいます。厳しく食生活や運動療法を指導して、体重管理などもしっかりしてもらいたいのですが、口頭での通り一遍の指導をくりかしても、現実には出来ていないのです。治療に対する患者さん自身の意欲を挙げるにはどうするか??………。 たまたまある合併症を起こし、これ幸いにと市立の総合病院へ紹介して治療に難渋する患者さんと私の縁が切れてよかったと思っていたら、紹介先の先生が厳しい、職員の対応が悪いとトラブルを起こして、また私の所へ舞い戻ってきたのです!。 医学の教科書通りの厳しい指導をしゃくし定規にすれば、言われたとおりに出来ない患者さんは落ちこぼれていく。それで落ちこぼれの患者さんと縁が切れると医師としては楽だろうな………、言うことを聞く優等生の患者さんばかり集めれば………。
 落ちこぼれの患者さんを治療するとすれば、優しくしたり、時に厳しくしたり、誉めたり、おだてたり、種々に配慮をして治療意欲を高めなければならない。途中で他の医師に紹介状を書くときは、糖尿病管理の状況をみられると、他の医師から田畑先生は糖尿病の治療をしているつもりですか、と私の評判を一段と落とすことになるだろうな………と、医師仲間の評判を気にする私です。いっそのこと、手のかからない患者さんばかり集めて…………という思いも頭をかすめるが………、これが私の現実、南無阿弥陀仏。仏教では主体(私)と時代・環境(宇佐市)はぴったり一致していると教えてくれます(依正不二)。
 治療していく上で、落ちこぼれ(優等生でない患者さん、治療意欲の乏しい、治療指導に従わない)の人を相手に、如何にこの人に対応するかが、我々医療人としての真価が問われるのではないだろうか。 全ての人が救われるとは、まさに病気の人が、“私は病気ではない”“治療なんか受けたくない”と豪語している人も救われていくことにならないと「全ての人が救われる」にはならないではないか。(いかに治療しても、最終的には老・病・死に捉(つかま)りますが)
 大乗仏教が本当に大乗である為には、全ての人を救うということが実現できなければならないのです。仏は自利利他円満を仏としての条件としていますから、心がけのよい、できる人だけを救うにとどまれば、仏教が仏教であることをやめなければならないでしょう。観無量寿経の九品(くぼん)の教え、その中の下品下生の者(造悪無善)の救いを誓われた「わが名を称えよ、念仏する者を浄土に迎え取る」、救われようもない者にかけられた本願、南無阿弥陀仏。この仏の熟慮の上に選び抜かれた方法によらなければ、全ての人の救いは実現できないのです。私のすべきことは仏智に照らされて自分の姿、救われがたい私、凡夫(菩薩になることではない)の目覚めにおいて、南無阿弥陀仏と念仏することです。

 註1,我見:(岩波書店、仏教辞典より、田畑が一部修正)自我(atman)の存在を是認する誤った見解(邪見)のこと。自我の所有、わがもの、我が思い、考えに執着する邪見(我所見)を含めていう。釈尊当時バラモン教系統の諸聖典で古くから主張されていた個体の中の実体である。非バラモン系統の思想家(いわゆる六師外道)にも自我の存在を主張する者もいた。 自我は永続し、決して変化しない、単一の実体で、個人の中にある主体として、自(ミズカ)らを支配するもの(常・一・主・宰)であると、仏教では解釈し、小乗・大乗のすべての学派が実体としての、自我の存在を否定している(無我)。

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