1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2551)

 人生の教訓や知恵は最初は自分の頭の隅にとどめておくとか、自分に言い聞かせ、それに沿って生きる努力をしているうちに、身体で頷き、身についてくるようなものでしょう。それは縁あって仏法を学ぶようになった場合も同じだと思われます。学仏とか求道ということは仏道を歩くことだし、歩いているうちに足腰がしっかりして自覚も深まり、そう生きさせてもらっている内に感動や喜びも出てくるものでしょう。浄土真宗の場合は信者と言うよりは念仏の行者という表現が適切であるとお聞きしています。
 念仏の教えも、念仏を喜ぶ年長の家族がいて良い印象を受けている所は例外として、その心をなかなか受け取れないものです。念仏の教えに触れてない者には、意味の分からない呪文みたいに思えて、理知的であることを信条として生きたいと思っている人には、念仏することに大きな抵抗があります。人によっては生理的に拒否感を感じるようであります。浄土真宗の葬儀の時でも、式の後半の正信偈を唱和される中を、参会者が仏前にお参りするときの仕草を間近に観察してみると、頭は下げて礼拝の姿を示しているが、口もとは“絶対念仏はしないぞ”と思っているのではないかと思える様子が見られます。
 念仏、南無阿弥陀仏は法蔵菩薩(阿弥陀仏の因位の名前)が、仏の全てを、すなわち智慧といのちを名前(南無阿弥陀仏、名号)となって届けたいとの願いによって、仏によって選び出された方便であります。歎異抄の第二章にある「ただ念仏して、よき人の仰せを………」の「ただ」とは仏の選んだ“ただ”なのです。仏壇の本尊の裏書きには方便法身の尊形と書かれていると聞いたことがあります。南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が選ばれた方便法身です。法性法身(阿弥陀如来の本当のすがた)は、「いろもなし、かたちもましまさず」と言われるように私たちには見えません。目に見えない清浄・真実のすがたを、仏教では涅槃(ねはん)、一如、あるいは真如(しんにょ)などと呼びます。それは、煩悩に汚れた人間の相対的な価値観では思いも及ばず、言葉でも言い尽くせない、遙かな世界です。そこから衆生のために現れる(具体化)のが「方便法身の阿弥陀如来」「南無阿弥陀仏」なのです。
 なぜ南無阿弥陀仏なのか。仏教を学ぶ者は殆どがこの問いを持ちます。この問いに法然上人は「仏意、はかりがたし。しいて推測するに、南無阿弥陀仏は簡単に言える、南無阿弥陀仏には功徳が満ち満ちている」といわれたとお聞きしています。簡単という方は頷けるとしても、功徳が満ち満ちている、ということには実感が全く伴わないと思われます。
 南無阿弥陀仏の生起本末を聞くという、名号のいわれを細やかに、時間をかけて継続して聞く、聞法の歩みをしてみて、はじめて、自分の依ってきた思考方法は十分に全体を見ることが出来てなかった、自分の思いに(我見)とらわれていた、分別を超えた世界なんて思いも至らなかった、等々に気づき、驚き、目からウロコが落ちた、という感動を感じていくのです。そういう歩みの積み重ねの中で南無阿弥陀仏の心に触れて行くのでしょう。
 そして、南無阿弥陀仏という名の言葉が、ただごとでないことに気づかされていきます。大峯顕先生から根源語とお聞きしています。我々は言葉とは普通実用語と考え、いったん使ってしまえば使い捨てで不要になるような言葉と思ってしまっています。言葉には深い意味があり、言葉なしには思考が出来ないし動物的には生きることが可能であっても、言葉なしには人間として生きていけないということに気づくでしょう。心の通う関係性を生きることが人間と言うことでしょう。(念仏によって始めて人間が成就するとお聞きしています。)
 南無阿弥陀仏は根源語で功徳があるといわれても、なかなか実感ができません。そこで功徳があるかどうか実験をしてみるしかないでしょう。「仏教は実験である」、とある師よりお聞きしています。念仏の功徳として「区切り」をつけてくれるということがあるようです。「区切りが大切」ということは平野修先生より教えてもらいました。分別では「今、今日が大切」といわれても、すんなりと受け取れないのです。「今」という時を受け取れない理知・分別は過去や未来を考えて思いわずらい、持ち越し苦労・取り越し苦労で振り回されます。その振り回される事を断ち切ってくれる、区切りがつくのが念仏だと思うのです。
 振り回されている者はいつの間にか明日や未来のことを考えて、未来の為の「今、今日」を過ごすということになりがちです。それが進むと未来が目的、ゴールみたいに考え、未来の為の今日、未来が目的で、今日はその準備の時になるでしょう。今日が未来の為の手段・方法の位置の扱いになりがちです。パスカルの指摘の如く、「明日こそ、明日こそと、死ぬまで幸せに成る準備ばっかりで過ごしてしまう」ことになります。それは明日が一番尊いということであり、今日は明日の尊さより一段と低いレベルで考えているということです。それでは「今・今日」という時が輝きをうしなうことになるのです。低い価値の一日を繰り返すと、その結果は振り返って見たときに「虚しく過ぎた」「空過」となるのではないかと思われます。
 今、今日を輝きあるものにするためには、今・今日が目的であるような一日にすることが大切と智慧が教えてくれているようです。今日が目的であるような一日を過ごすためには「区切り」が大切になるのです。その区切りをつけてくれるのが智慧です。その智慧を「念仏」として届けたいということでしょう。念仏で区切りがついた今日となり、その結果、今日が目的である様な一日一日を過ごすことになります。その積み重ねが、足し算されて、一ヶ月、一年と展開するのです。その結果、本願の心、「人間として生まれてよかった、生きてきて良かった、という人生を歩む者になってほしい」との願いが実現する方向に導かれるのです。
 智慧がなくて、仏教なんかなくても生きていけると豪語する者を無明、仏智疑惑、我痴と言います。智慧がないために、明日こそ、明日こそ、と夢を追いかけて今日を生きる(結果として空過に成りやすい)ことになり、内面に不平・不満、不足を抱えながら、持ち越し苦労、取り越し苦労に振り回されて、右往左往してしまうからなのです。「いや、私は順調に順風満帆で生き生き生きています」という人も、心の内面は不足・不満・欠乏・不安の心を抱えている、それは不足を満たそうとする、追い求めるイキイキである、と智慧の光は照らし出すのです。
 智慧がないために右往左往し、苦悩している凡夫を痛ましく、大悲されて、智慧といのちを届けたい。仏の全てを名前となって届けようとされる本願、南無阿弥陀仏です。愚痴をいいながら、まさに腐っていく(役に立たない、迷惑をかけると自分を廃品の様に見る)ような人生を歩む者に、「人間に生まれて良かった、生きてきて良かった」という人生を歩む者になって欲しいとの本願です。
 念仏の功徳を体験する実験を始めませんか、念仏で区切ってもらうのです。持ち越し苦労、取り越し苦労を断ち切ってもらう念仏。明日こそ・明日こそと夢・幻のようなものを追いかける心を念仏して断ち切って、今日、一日を目的とするような生き方,今日を未練なく生ききる生き方に導いてくれる智慧の念仏。朝起きる時、今日のいのちが恵まれた、南無阿弥陀仏、夜寝るとき、これでおしまい、南無阿弥陀仏、念仏を実験しましょう。実験と同時に念仏の心を訪ねる聞法が非常に大事です。「焦らず、急がず、中断せず、継続一貫の聞法、後は如来にご一任(南無阿弥陀仏)」とお聞きしています。念仏して救われるというよりは、念仏が救いなのです。

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