2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2551)
明けまして おめでとういございます。
今年も、本願,南無阿弥陀仏、お念仏の心、すなわち「人間に生れてよかった。生きてきてよかった、という人生を生きる者になってほしい」という仏の心をさらに深く尋ねて、共に聞法して歩みましょう。 合掌
「医師が読む歎異抄」(1)雑誌『大法輪』2008年2月号掲載(p123−128)
よき師の教えと『歎異抄』
私は学生時代に故細川巌先生(福岡教育大名誉教授)にお遇いして以後、浄土真宗のお育てを30数年頂いてきました。消化器外科の専門医として仕事をしてきましたが、現在の国東市民病院の管理職に就いてからは外科の仕事はやめました。その後、医師としての仕事をつづけてきましたが、約4年前に10年間、管理職を務めて勇退し、現在民間病院で医師として地域の家庭医のような仕事と介護を必要とする入院高齢者、約50名を担当しています。
仏教の方は大分県下数か所で毎月「歎異抄に聞く会」を主催して講師としてお話をさせていただいています。よき師の残された歎異抄の講義録を味読しながら、お話をさせていただいています。最も長いところではもうすぐ20年になろうとしています。
歎異抄は、職業、年齢、性別を超えてすべての人が救われる浄土の教え、念仏の心が説かれているということはいうまでもありません。法然上人亡きあと、念仏の教えをさらに深くいただき、我々には「教行信証」等の書物として残してくれた親鸞聖人ですが。その親鸞聖人の生身の息遣いを伝えてくれる歎異抄(お弟子の唯円によって書かれたとされる)は漢文ではなく、一般の人にも馴染みやすい日本語で書かれた仏教書です。歎異抄をいただくうえで注意しなければならないことは歎異抄の背後には「教行信証」があるということですと師からお聞きしています。歎異抄を読んでいくうえでは親鸞聖人の著作にかえり念仏の教えを深くいただいていくことが大切と自戒しています。
現代医療と仏教の教え
現代の医学教育は、明治以来、宗教抜きの医師教育がなされてきたために、多くの医師は仏教に無関心で人間の理性知性を拠り所とする思考にどっぷりと漬かっていると言っていいでしょう。そのために宗教に関心のある医師は少なく、関心はあっても分別での知識的な仏教理解にとどまり、仏教の救いは「自分自身の救いの課題なんだ」というところまで学ばれる医療関係者は残念ながら少ない。医療関係者に歎異抄という名前を知っている人が珍しいぐらいになろうとしています。
ある大学の医学部学生に、歎異抄という本を知っていますか、と質問すると反応する人は少ないのが実態であります。多くの現代人には念仏の教えはレベルの低い人の、まさに死ぬ前の弱者が、ワラをもつかむ思いで“南無阿弥陀仏”と称えるものという先入観が強く、仏の心を本当にいただく人の少ないことは悲しいことであります。
禅宗の師家で哲学教授をされていた秋月龍a師が医学生に「皆さん方は人間の“生老病死”の四苦を扱う医療の仕事に将来携わるのでしょう。仏教は同じ“生老病死”の四苦に取り組み解決の道を見出して2千数百年の歴史があるのです。同じ課題に取り組んでいくわけですから、医療の仕事に携わる者は仏教的素養をもってほしい」と語りかけていたとの記述を読んだことがあります。しかし、世間常識では“生きているうちは医療、死んでから仏教”という偏見が多いという事実があります。福永光司先生は日本医学会総会の開会記念講演で「今の医師は技を求めることに急であって、道を求めることをおろそかにしたがために、人々の尊敬を受けなくなった」と、医師に宗教的素養の必要なことを訴えられていました。またある識者が道を求めることをおろそかにした医師の実態を「医者の傲慢、坊主の怠慢」と書かれていました。
生老病死の四苦の課題に取り組み、避けることのできない老病死の壁にぶつかった時、仏教抜きの医療で救いの方向性が見出せるのでしょうか。患者さんが本当に老病死の苦悩を感じるようになるのは医療の限界を超えた老病死の状態になってからでしょう、治癒可能なときは患者さんとの対話は良いが、治癒できない状態になってからの患者さんとの対話は、生死の世界を超えた宗教的世界との接点を持たずに対話をしていこうということは大変のことです。死は敗北としてしか考えられない医師はそんな患者さんとの対話を避ける傾向になる医療現場の現状があるのです。縁起の法による人間理解を深くする時、医師は医療の専門家ではあるが老病死に関しては患者さんの方が先輩である、人生の先輩になるのです。そんな患者さんと平等(いや先輩としての敬意をもち、学ぶ姿勢)の対話の場を持つ関係ができていくことが大事です。念仏の教えとの接点を持ち続けるとき、老病死の現実を縁として多くの学びに導かれ、人間としての成熟、完成した人間(仏)になる歩みになるのです。
知らないものを学び、知識を増やすという学びの方向性だけでは仏教は理解できません。仏教の博学になることはあっても、自・他の救いに導かれると言うことは難しいでしょう。本願の教えに育てられる、成熟し、自我の殻を照らし破られる。破られてはじめて、大きな仏の世界のあることを、そして自分が自我の狭い殻の中にいたことを気づかされるのです。殻が破られてから本格的な仏道が始まるのです。
現代医療者の発想を超える『歎異抄』の教え
歎異抄第1章の、「念仏申さんと思い立つ心の起こるとき、摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり」では、現代の多くの知識人は訳の分からない念仏を称えることは生理的に拒絶反応を示します。なぜ念仏なのか。仏の心に触れなければうなずけないことであります。その心を知ることが弥陀の本願を聞いていくことでしょう。
弥陀の誓願とは?。阿弥陀仏の世界を知ろうとして阿弥陀仏についての情報を集め、知識を増やし、阿弥陀仏の総合的な理解をして阿弥陀仏の核心に近づこうとする医療者の発想ではわからないであろうと思われます。阿弥陀仏の智慧の光に照らされて自分の姿を照らし出され、知らされていくことが大切なのです。見る眼すらも仏から育てられていくということがあります。(続く) |