3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2551)

 「医師が読む歎異抄」(2)雑誌『大法輪』2008年2月号掲載(p123-128)

(1月よりの続き)
 病気に対して分析的に解明しようとする医療者の発想方法からは「南無阿弥陀仏」は全く受け取れないでしょう、大きな世界、無量光、無量寿で示される、分別を超えた大きな智慧と慈悲で示される世界は人間の分別では把握出来ないのです。「大きな世界は感得するしかありません」とお聞きしています。書物での仏教の理解も大切ですが、限界があります。仏の働きに触れる為には僧伽(さんが)と接点を持つことが大切です。
 第二章では、よき師、よき友との出会いについて書かれています。人生の師との出会いは得難いものであります。我々の自分の人生を成就するために、種々の情報を集め、その中から良いところを取り込んで行こうとする方法では、なかなか自我の壁はこえられません。よき師に出会い、人格的な出会いや僧伽の雰囲気から感得される仏のはたらきに触れることを通して、念仏の心がうなずけていけるのでしょう。

 悪人とは、慈悲とは
 第三章で示される悪人とは何か? 世俗的な世界にどっぷりと漬かっている現代人に評論家的な人が多いと思われます。対象化という思考の方法では自分を問わずに客観的にものを理解しようとすれば、自分は除かれて、自分を問うことが疎かにになります。その思考で自分を見つめても、自分の煩悩性、凡夫性、悪人の自覚をすることは難しいことになります。対象論理で傍観者的な発想では仏法の周辺をうろうろすることはあっても仏法の核心は全く分からないままに終わるでしょう。仏法のはたらきが分かるのか? 圧倒的に大きすぎて人知の及ばない世界です。しかし、仏の無量の光に照らされた私の姿は、はっきりと自覚されてくるのです。煩悩具足の凡夫(必ず頭が下がり、念仏する)、すなわち、仏の目当ての存在、本願のかけられた悪人(仏法無視の私)と自覚させられるのです。
 第四章の慈悲の課題、すなわち抜苦与楽、本当に人間を救うことはどうしたら出来るか?医療は確かに病気の患者さんを助けます。しかし、その結果120歳を超えた高齢者が増えたということはありません。病気をいったん治癒させたとしても必ずその後、老・病・死につかまるのです。仏教の生死の四苦を超える世界、阿弥陀仏との出遇いがなければ本当の救いにはならないでしょう。念仏に出遇い、念仏する身になるとき、出遇うべきものに出遇ったと感動して足ると知る世界に導かれ、いつ死んでもいい、いつまで長生きしてもいい、仏さんにお任せします、南無阿弥陀仏と。生物学的な命の長い、短いにとらわれない、今日を永遠と通じながら完全燃焼して生きる身に導かれていくのです。
 聖道門(私が立派な仏みたいになる道)の教えは医師の指導を守り、よく実行する優等生の患者の救われる道に似ています。優等生ばかりを治療する医師は苦労は少ないでしょう。しかし、その場合、医師の指導をよく聞き、守る患者さんが老病死につかまった時、医師は自分の指導の限界を身に染みて知らされるでしょう。知人の医師から、一生懸命に治療をして数回の手術で癌の治療を乗り越えた、しかし多発転移と病状が進んだとき、患者が亡くなる3日前、主治医に「だましたな」と言って、その後意思の疎通のないまま亡くなったという話を聞きました。患者、医師ともに救われないのではないでしょうか。
 医師の指示をなかなか守らない患者さんを治療するときに医師としての力量が問われます。病識のない、生活習慣を正さない、健康に気をつけない患者さんを治療するのに苦労するのです。まさに浄土の教え、念仏の教えはそんな難治の患者さんをもまるごと救う教えといただいています。

 「無碍の一道」を歩む
 第五章は対家庭について語られています。親孝行で思い出すことが最近ありました。99歳の老婆が入院中、夜眠れないと訴えだした。看護師がよく聞いてくれて、親不孝の自責に念で夜、眠れないというのです。睡眠導入薬を処方しようと思ったが、この方は最近聞法をしてくれている人でしたので、ゆっくりと30分ぐらいかけて本願、南無阿弥陀仏の話を食堂でいたしました。親不孝の自覚の者を目当てに本願がかけられている旨の話をしました。その後、看護師の話では眠れるようになったとのことでした。薬を処方せずによかったと思いました。
 第六章では師弟関係を通して、仏の働きによって与えられ、知らされる関係性存在としての在り方を教えられます。見える世界は見えない世界によって支えられている、生かされているという縁起の法に目覚めさせられるのです。師に教えていただいたものをも、私が理解したものと私有化しやすい私の餓鬼性を思い知らされます。
 第七章には無碍の一道なりと示されています。念仏の教えは「人間に生まれて良かった、生きてきてよかったといえるような人生を歩む者になって欲しい」、という願いです。念仏の智慧を頂く歩み、人間としての成熟に導かれる道において、私という、欲望する存在が、存在の満足に導かれてゆき、欲望に振り回されることの少ない歩みが出来るようになり、世俗のいろいろな事柄を念仏の教えへのご縁として受け取り、自在に生きる道に導かれるのです。それを念仏者は無碍の一道なりと頂くことです。
 後序の「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は よろずのこと そらごとたわごと まことあることなきにただ 念仏のみぞ まことにておわします」、この頼りにならない世俗の人生だけども、頼りになる世界のあることをわかってもらいたいとの願いで菩薩の道を究竟する歩みに導かれるのです。
 仏教は一生被教育者としての歩みです。謙虚に道を尋ね、聞法していくことが大切だと思うことであります。

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