4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2552)

 私を苦しめ、悩ますもの(1)

 我々は世の中の出来事や人々の行為、事件、そして自分の身の回りの出来事や自分の身体のことに対して、心配したり、腹を立て憤(いきどお)ったり、うらやましく思ったり、くやしい思いや、嫌になったり、なぜ私がこんな病気にと不安を感じたり、いろいろと心を痛めます。その乱れた心が煩悩の心で、「惑(わく)」ともいいます。「惑」の心が次ぎに何らかの行動を引き起こします。しかし、「惑」の心は自分では迷っているとは自覚してないことが多いし、かえって自分の正しさ(仏の智慧でみると独りよがり、我見・邪見)に自信さえ持っています。そのために思うようにならない展開になると、さらに腹を立てる、つい「大きな声や手が出る」というようなことにもなります。すると結果として人間関係に摩擦を起こし、人に嫌(いや)な思い、迷惑をかけたり、自分自身も痛い目に会うということもあり、その結果、後悔の念や罪の重さに、自責の思いで自分が苦悩するという悪循環になってしまいます。
 煩悩という「惑」が、行動を起こし(「業」)、結果として苦悩する(「苦」)というつながりになるという関連性があるのです。苦悩の種類が千差万別であるように、その元となる煩悩も当然,たくさんあります。百八の煩悩とはたくさんと言うことで代表的な煩悩が三毒の煩悩と言われる貪欲(とんよく、順境での貪りの心)、瞋恚(しんに、逆境での腹立ちの心)、愚痴(ぐち、智慧がないこと)です。
 診察室で聞く患者さんの訴えの多くは、患者さん自身の身体的な不都合な事象や、時には周囲の諸々の自分にとって好ましくない状況に関してのことです。自我意識が自分の身体や外の事象を対象化して向こう側にながめるように見て、私を困らせる原因は体の不調や外の事象である、と訴えることが多いのです。時にはその我見が進み妄想をたくましくして客観的には認めがたいものでも、私を苦しめ困らせる事象と確信を持って訴えます。そして自分はあたかも被害者であるかのような訴えをされることがあります。
 仏教では苦悩の原因は他(外)にある物事・事象ではなく、自らの「内にある」煩悩だと教えてくれています。外の事象が全く関係ないということではなく、私を苦しめ悩ます大きな原因は外の事象ではなく、私の内なる煩悩である。煩悩に囚われて、振り回されていることが、外の事象という縁に触れて、自分の思い通りにならないと、自分で自分を苦しめ、悩ますことになるということです。
 現代の理知分別を尊重する教育で育てられると、外の事象を見ることに熱心で、自分の心の内面を見つめる時は心が痛まない程度の反省はするが、身びいきの甘さで、自分を厳しく問われることは避けます。対象化して客観的に見て合理的に思考することに鍛(きた)えられて、眼はいつも外に向かって、傍観者となっています。新聞やテレビなどのマスメディアが「市場に群がるハエ(こんな言葉は死語か)」の如く興味本位の情報を流して、無責任な傍観者のような発言を繰り返しているのが私を含めての我々の悲しい現実です。
 そういう理知分別の立場は建て前と本音を使い分けます。自分の建て前と本音を使い分けることを普通のことと考えています。公的な所では建て前を全面に出して、賢(かしこ)げにふるまおうとします。本音のところは私的な煩悩まみれのどろどろした内緒話のようなもので、表には出さないようにしています。俗的な世間は建て前で構築された表面を取り繕った世界のようなものです。そこでは人間中心主義、ヒューマニズムが尊重され道徳倫理が建て前として大きな顔をして、いわゆる悪い人間はいない、努力すればよい人間になれる。あたかも性善説のような楽観主義が大事にされて、人々の拠り所となっています。
 最近のニュースや新聞の三面記事は建て前を尊重する世俗的な生き方は壁にぶつかっている現象を示す種々の記事が、これでもか、これでもか、と報道されています。目にする情報は目や耳を覆いたくなる現状です。私を代表とする人間の愚かさに気づけ、気づけと、世俗の醜悪な実態を露出させているかの如くです。
 思うようにならない現実、迫りくる私の老病死、世俗の悲しい・痛ましい実態は私を苦しめ、悩ます「因」ではない。それらの現実は「縁」なのです、と仏教は教えます。聞法の先輩、堤日出雄先生の講義録(日の里歎異抄の会通信、2007/12/17より)には、「私にどういう問題があるのだろうか。(人間そのものが抱えている問題ということです。)仏教の智慧は、『我執の殻』こそわれらの一切の苦悩の根源(因)であると指摘した。私を苦しめるもろもろの事柄は苦悩の縁であって因ではないというのである。この殻に閉じこもっているかぎり、自己と人生のありのままの現実を受け止めることはできない。
 深く自分にとらわれた自我の思いが私を束縛して狭い小さな世界に閉じ込めている。この自我の思いを『我執』という。煩悩の根本である。人間は一人の例外もなく、目に見えない自己中心の我執の殻の中に入っていて、そこから出ることのできない存在である(人間は自分という牢獄に閉じ込められた囚人である)。我執とは、常に人と比べてその優劣にとらわれ、人に負けないように、不利にならないように、人から悪く思われたり、馬鹿にされないようにと、自分の評価が下がることを何より恐れる心である。我執の中心はこの保身の心である。宗教(仏教)によって救われるとは、老病死その他、どのような厳しい現実にであってもそれをあるがままに受けとめて、常に明るく開かれた心で生きてゆける人(私)になることである。他力、本願、阿弥陀仏、浄土、念仏等等は人間をその我執の煩悩から解放し、限りある人生を満たされた明るい心で生き抜くための、仏の方から用意いされたものである。これを方便という。」と書かれています。
 我々は自分を苦しめ悩ますものは、思うようにならない現実、経済的な貧しさ、物質的な欠乏、人間関係の不和、身体的な疾患・障害、社会資本の不備、社会システムの課題、政治的な不安定、思想の対立、主義主張の摩擦、などなどの外の現実であると考えてきました。最近、関東在住の友人が、中国を出張旅行する機会があり、現実に見た中国の貧富の格差(日本では考えられないくらい)にびっくりして、仏教はこの現実をどう考えていくのかとメールしてくれました。
 堤先生の講義録はさらに「人間の救いとは」として。「一般の人は、病気で苦しんだり、仕事がうまくいかなかったり、人間関係で苦しんだり、災害にあったり、子供が問題を起こしたり。……自分の思い通りにならない困った時、困った問題を解決してもらって困らないようになることが我々の求める救いである。しかし、本来の宗教は私たちの直面する人生(生活)上のさまざまな困った問題を直接解決するためにあるのではない。病気になれば医師に相談し、失業すればハローワークに、トラブルに巻き込まれれば警察に、等々、たとい不十分であってもそれぞれの専門機関や行政施設に相談するのが第一であろう。決して宗教が人間の直面する苦悩に冷淡ということではない。仏教は釈尊の出家の動機が老病死であったように、人間の苦悩から出発した宗教である。ただ、人間苦悩とその解決方法についての考えかたには、仏教独自のものがあり、世間の常識とは大きく異なっている。今私を苦しめているその問題よりも、その問題で苦しんでいる私自身の中にもっと大きな問題がある。本当の問題は私の外にあるのではなく、私自身の内にあるのだという。」(続く)

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