5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2552)

 私を苦しめ、悩ますもの(2)

 私を苦しめ、悩ますもの、すなわち苦悩の原因は私を取り巻く種々の外の状況ではないと仏教は教えるのです。外側の種々の条件は苦悩の縁にはなるが、原因ではないということでしょう。しかし、かって私の青春期に「なぜ、こんな私に生まれたのか。なぜ、この親に、なぜこの家庭に、なぜ、この能力に、なぜ、この容姿に、なぜこの日本に、なぜ、この時代に、なぜこの宇佐市に、等々」、私の現実を受け取れず、恨むことさえありました。当時の私にとって私を苦しめ、悩ますものは私の周囲の外の状況が全てだと考えていたのでした(外の状況が原因(因)で私を苦しめる、悩ます(果)と考えるのを因果律という)。現代人の多くの思考は政治・経済で種々の外の状況を改善することで人々は幸福になれる、苦悩から解放されて豊かな社会が実現すると無邪気な楽天主義で生きているように思われます。
 堤日出雄先生の講義録(日の里歎異抄の会通信、2007/12/17より)には、続いて「若い人が結婚する時、ほとんどの人が、この相手とならばきっと結婚生活がうまくいくに違いないと考えて結婚するだろう。つまり私の結婚生活(人生)が幸せなものになるかどうかのカギは相手にある、だれと結婚するかによって私の結婚生活の幸不幸が決まると誰でも思っている。それ以外に考えられない。
 しかし、仏教では、誰と結婚しようと私の結婚生活が成功するかどうかの本当のカギは私自身にある。私自身が根本的に変わらない限り誰と結婚しても結局同じだというのである。このような仏教の考え方を内道という。それに対して私が幸せになれるかどうかは専ら私の外(相手の人や周りの環境等)にあるという考え方を外道という。」と記録されている。ちょっと「エツ!」と思わせる内容でありますが、仏教の智慧の眼で見るとそういうふうになるのか、自分のうなずきになるかどうかすこし考えてみてみたい。
 物事を考えるために整理してみると、結婚生活がうまくいくか、いかないか、と結婚生活が幸、不幸かということは別々に考えた方がよいと思われる。
 結婚生活が外からみて、問題ないと思われる(本人達もそう思っている)ジャーナリストが「私たち夫婦がこれまで別れなかった最大の理由は本質的な話をしてこなかったからだ」と言われたという紹介記事を読んだことがあります。その記事は続けて、本質的な話の内容についてふれて「夫婦愛とは何か、家庭はいかにあるべきか、などヤヤコシイことを話し合ったら、たちまち考え方、性格の違いが露呈して、せんでもいいケンカになり、『じゃあ、別れましょう』ということになる。ウソだと思うなら、今晩やってご覧なさい……。」と書かれていました。と言うことは外見を見ただけでは、うまくいっているか、うまくいないかの判断は難しいということです。
 世間的に家庭の内部が無難で、波風なく過ごせている間は問題が露出することは無いかも知れないが、たとえば、子供に困難な問題が発生したとき、子供の現前の事実を否応なく夫婦が一緒に考え、取り組まなければならないようになるとどうなるか。東京ビハーラ通信(H19年1月)の編集後記の中に「例会のゲスト講師が、講演の中で『小児がんの経験をもつ両親は、お子さんが逝去した後、離婚率が高い』と言われていました。小児癌という極限の危機の中で、平和であればさらけ出す必要のないお互いの価値観の相違を見せつけられるからです。お互いの価値観の違いを包容してくれる大きないのちと言った生命観の不在が新しい不幸を生み出していくようです。と同時に小児癌の経験は両親にとっても質的転換という成長の場でもあります。」という記事が出ていました。
 「お互いの価値観の違いを包容してくれる大きないのちと言った生命観」というのが仏教の世界観、本願、南無阿弥陀仏の世界という意味です。
 仏教では物事を納得する思考として縁起の理法を説いています。大きな因(原因)が縁(条件)に触れることで働きを引き起こす(業)、その展開の中で結果(果)が起こってくる。それは次ぎなる事象に影響を及ぼす(報)。そのように物事は「因・縁・業・果・報」と展開していくと言うことです。また仏教は物事を対象化して、仮定の課題を傍観者的に論じることを虚論として嫌います。智慧に照らし出された自分の身を通して物事をみるということが大切です。
 結婚という事象は、偽装して結婚することを除いて、一緒に生活しようとして始めるのが結婚生活ですから、まさに縁が熟して結婚したということでしょう。しかし、縁の熟し方が不充分で相手を誤解していたり、結婚に踏み切ってしまったが、世間での常識はずれのことがらが隠されていたり、人生観、生活感、価値観等々の相違がその後露呈して結婚生活を継続できなくなるということは現実的には避けられません。
 「私の結婚生活が成功するかどうかの本当のカギは私自身にある」ということは、どう考えればよいのか。成功・不成功と決めつけるべきではないように思われますが。
 師の言葉に「人生を結論とせず、人生に結論を求めず、人生を往生浄土の縁として生きる、これを浄土真宗という」があります。まず仏法では成功、不成功と決めつけることを嫌います。「塞翁が馬」のことわざの如く、今、よかっても、それが次ぎる不幸の種になる可能性を秘めているから、幸・不幸は簡単には決められないということでしょう。歎異抄の後序に「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と親鸞聖人の言葉として伝えられています。
 本願、南無阿弥陀仏の心をある方がわかりやすく、「人間として生まれてよかった。生きてきてよかった、という人生を歩む者になって欲しい」と言われています。念仏の心を受け取り、念仏する生活に展開するとき、世間的な種々の出来事が往生浄土の縁となる。本願の心を受け取る者は世俗的な善悪に振り回されないのだという意味です。そのことは歎異抄の第一章に「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえにと云々」と表現されています。
 結婚生活がうまくいっても、うまくいかなかっても、そのことが愚痴の種になるか、そのことが「人間として生まれてよかった。生きてきてよかった、という人生を歩む者になって欲しい」という内容の実現の縁にするか、しないかのカギは私自身の受け取り方にある、ということでしょう。
 あなたの智慧のなさ(無明)が、あなたが煩悩に振り回されていることすら知らずに自我意識の我見・我愛(我痴がこの根底に有る)で、自分の思い(我見)通りにしたいとの思考・行動を展開させている。その結果、あちこちに摩擦やひずみが出てきて、その結果、あなたの思い通りにことが進まないという展開になってあなたを苦しめている(惑⇒業⇒苦)。確かに外の状況が全く関係ないという訳ではないが、それらは縁なのだ。あなたを苦しめ・悩ましている元凶(原因)はあなたの内にある煩悩(我痴・我見・我慢・我愛)だというのでしょう。(続く)

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