6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2552)

 私を苦しめ、悩ますもの(3)

 天親菩薩の願正偈(浄土論)の一節に浄土の徳として「究竟(くきょう)如虚空、廣大無邊際(へんざい)」(究竟して虚空の如く、広大にして辺際なし)があります。平野修師の講義録によると無邊際とは辺鄙(へんぴ)な所がないという意味、辺鄙(辺地)な所がないという意味は誰もが中心(真ん中)にあると感じることのできる世界ということです。
 辺地にいるとは自分の人生に真向きになれず、自分の現実を中途半端な受けとりをしている、例えば、これは私の人生の本番ではない、本番への準備か、準備としての今なんだ。本当は今が本番なのに斜めに構えて、正面で受け取らないで、中心の周りをうろうろしているかの如くにあるのが、“辺地にいる”という意味です。自分の人生を主体的に受け取れずに、与えられた条件が悪い、やる気が起こらない、私にふさわしい条件の所に場所移動したい、等々と自分の境遇に愚痴を言っているということです。
 自分がなぜこの時代に、この国に、この地に、この家・両親のもとに、この身体で、この容貌で、この能力で、生まれたのか。今は自分の人生の本番ではない、準備の時だ、この事に切りがついて条件が整ってから本番だ------。 今はなかなか本気になれない、もう少しやる気が起こってから本番だ------。 なぜこんな人間関係(家庭・親族・地域社会・職場など)の中で、なぜこんな病気の素因を持って、なぜこんな経済状態で、なぜこんな文化状況の中で、なぜこんな社会状況なかで、-------なぜ私が苦労をしないとならないのか-------と。
 神社仏閣で人々が願い事として祈願する上位の3つが、無病息災、家内安全、商売繁盛であると統計に出ているようです。私を取り巻く状況の好転が起こればいいのに。今はまだなにか不満だが、近い将来状況がよくなって欲しい、神様、何とか願いをかなえてください、そうすれば私は幸せになれます、と神社仏閣に祈っているのです。(偽りの宗教)
 (関係者の言によると、お賽銭と参詣者の統計で一人当たりの賽銭金額は約6円ということです。いや、びっくりしましたが、参詣者も本気で神の加護をあてにしているのではないようです。人が集まるから、みんなが行くからとお遊び気分で出かけていると言うことでしょうか。それが日本の宗教事情ではないでしょうか。)
 結局は理性知性・分別を頼りに、仏教なんかなくても生きて行ける、私の周りの状況、条件を整えれば幸福になれる、と考える平均的現代日本人のありようを示しています。しかし、それを仏教は無明(明るくない、全体が見えてない)というのです。その結果は、今、ここで自分に真向きになれず、人事を尽くせず、不完全燃焼の生き方になりがちになるのです。
 無明とは文字通り、明るくないこと、智慧の眼を失っていること、闇(くら)いことです。しかし闇(やみ)は闇である限り、暗いということを知りません。そしてそれが闇ということです。同じことですが、無知が無知であるかぎり無知を知らず、迷いが迷いである限り迷いを知りません。迷いが迷いとしてすがたを現さずあたかも悟りのような相貌(すがた)を呈するのが、まさに迷いということでありまして、そこに迷いの真に恐るべきゆえんがあるのです。このことは私たちのあり方が大きな無知の元に立つこと、人生が大きな錯視によって支配され、その真相が永遠に覆われていることにほかなりません。それを仏教では「顛倒(てんどう)の妄見(もうけん)(ひっくりかえった間違った考え方)」と申します。すなわち、苦しみの中に有りながら楽しみと幸福を求め、死ぬいのちを持ちながらいつまでも生き延びるように思っているわけです。このように、結局、無いもの探しで虚しく一生を終えるのです。([光を聞く、--生老病死--]《松塚豊茂著、2005年》より)
 (飯塚の県立高校教師(数学)、赤宗さんの講義録には教えられました、それによると、―前略―、数学に「5次方程式」という問題があります。1次から4次までの方程式は、足したり、引いたり,かけたり,割ったり、累乗根をとったり、つまり代数的に解けるのです。5次方程式も当然解けるはずだと思って、多くの数学者が5次方程式を解こうとして一生を棒に振りました。つまり4次まで解けたのだから、5次も解けるはずだという思いが抜けないです。ところがアーベルという人は5次方程式は一般には代数的に解けないのではないかという発想をして、遂に5次方程式は代数的には解けないということを証明しました。できないということが分かるということは滅茶苦茶大きな進歩です。質が違うのです。―後略―)
 高光大船の言葉に「この世に人をうらんだり、他人をあてにする間は、何か見えるのだ。闇から闇の人生に目覚めると、迷うに迷われない。迷いに迷えないということは、手も足も出ぬことである。手も足も出ぬことは明るさである。これを皆当往生(註1)という」という意味深長な言葉があると聞きました。
 私を苦しめ、悩ます物が私の外側にあって、私を苦しめ、悩ます、と確信を持って私たちは考えているのです。だから、私を苦しめ、悩ます物を減らし、楽しませるもの、喜ばせるものを増やそうと日々取り組んでいるのです。しかし、仏教ではそれらを“迷い”というのです。常楽我浄なき世界で常楽我浄を追い求めているからだ。ありもしない理想と幸福を追い求め生涯さまよい歩く。結局、「無いもの探しで虚しく一生を終えますよ」ということです。仏の智慧、無量光(教え)で私の迷える現実が照らし出され、救われようのない私(地獄は一定住みかぞかし)と知らされる。 幸いに縁熟して念仏の心に触れて、念仏する歩みに立つとき、迷いの目で地獄と見えたものは転化して浄土の世界であった感得するのです。その結果「仏の本願力を観ずるに、遇(まうあ)うて空しく過ぐる者無し」(願生偈より)と苦悩を超える歩みに導かれるのです。
 註1:「皆当往生」についての関連記事、児玉暁洋師の講義録から。(田畑が一部改変)暁烏先生が私の近くのお寺に来て、「皆当往生(みな まさに往生すべし)」という説法をされたのです。どんな人もどんな悪人も、そのままで必ず救われる。阿弥陀如来の大慈悲心に漏れるものは一人もいない。助かるという言葉は助かっている人が語らなければ響かない。その時の先生のお姿、そのにこやかなしかも威厳に満ちた顔、凛として響き渡る声、言葉、その調子、それは後になって知ることになる「光顔巍々(こうげんぎぎ)」という経典の言葉そのものでした。
 現に、今、救われている人の「どんな人も みな救われる」という言葉は、「汝(お前)も必ず救われる」と私に響いてきました。私はこの一座の説法でここに私の求めている<真実のいのち>があるということを直感しました。登校拒否のはしりのような私は高等学校を辞めてしまって、暁烏先生のお寺に入門した。
 私は「皆当往生(いのち みな生きらるべし)」という大無量寿経の言葉とともに、暁烏敏というその言葉の通りに生きている人に出遭うことができたことを、有難い(有ること難し)こととして深く感謝します。人との出遭いは、何時か何処かの誰か、としてただ一度限りの出来事ですけれども、言葉との出遭いは、言葉は意味を持っていますから、時代と国を超えて響き合うことができるのです。先生との最初の出遭いから7年後に、先生は浄土にお還りになるのですが、・・・・・。

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