7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2552)

 私を苦しめ、悩ますもの(4)

 我々は私の置かれている周囲・環境・状況をつぶさに観察して私にとって都合の善いもの、都合の悪いものを峻別していきます。そして対象のモノは自分にとって快か・不快か、利用価値があるか・ないかと分別していきます。自分にとって好ましいものをできるだけ多く集め、自分の周囲に配置します。そして自分なりに想定した「しあわせ」観をめざして進むことになります。そこでは確固たる私(自分、我)はある、変わらない私があると思い、私が考えたこと、私が見たこと(我見)は間違いないと思ってしまっているのです。長年人生経験を積んできて、それなりの実績を積んできた者には、自分の思いに自信もあるのです。しかし、人間の一番基本的な哲学的な課題、「生きる意味」などは考えても分からない、と考えることを避けて来ています。  それよりも世俗的なことで忙しい、暇になったら考えてもみるが、ひとまず家族が食べて行くこと、生活の安定をはからなければと考えるのです。どうしたら安定した生活を確保することが出来るか。考えることは自然と安定した価値あるものへと関心は向かいます。「お金」「土地」「健康」「資格」「知識」「技術」「地位」などなどです。
 私を取り巻く外側の事象(仏教もこの中に含まれている考えている)をよく吟味して、自分にとって好ましいものを可能な限り集めることに関心を示し、取り組んで来ました。それしかないじゃないか。生きることの意味とかそんな解答のないような課題は閑人(ひまじん)の遊びだと,バカにする雰囲気でした。
 一方で還暦を迎える年齢となってきた我われには世間での仕事も一区切りがつくようになると、これまでの人生は良かったのだろうか(いや恵まれ過ぎていたな……南無阿弥陀仏)、でも自分は何を望み、どう生きたいのか、という課題が未解決で残されていたことに気づくようになってきます。仏教では「人間に生まれた意味、生きる意味、生きることで果たす使命、死んだらどうなるのか……」という課題を後生の一大事という表現をします。それが基本中の基本です。それに関して仏法の師より「世間の仕事は余力を残して止めなさい、後生の一大事が解決をついてなくてどうしますか」とお聞きしていました。
 人間に生まれた意味、生きる意味が分からないとは、基本中の基本が分からないで生きて来たわけです。今まで生きてきた延長線上で、生きることに自信を持てるようになろうとしていたが、考えてみれば、何も分かってはなかった、ただ生きることに厚かましくなり、無恥厚顔でわがままになろうとしていただけのことでした。そんな私がしっかりしようとして仏教を持ってきて利用して自分を安定させようとしていたのです。
 仏教を道具や手段・方法の位置でとらえて考えているということ自体が仏教を歪めているのです。仏教の中にそんな人間が利用しようという意味では中身がなく、私が偏見で想定した仏教は的外れに必ずなるのです。私が仏教を空虚なるものにしてしまっていたのでした。
 「仏教を大事にしています」とか「仏教を信じています」と表現する時は、私と対立的(別々にある、二つを立てているということです)にある仏教との関係になっていることで、基本的には対立関係ということであり、対立という関係は本質は「疑い」ということです。対立的な関係で対象化して「私は仏を信ずる」という表現がありますが、実質を伴わないのです。対象化したモノの中に分からないものがたくさんあるが、無理矢理信じ込んで、あなたを「信じます」と言っても基本は「疑い」ですから、言葉に実がなく空虚なものになるのです。
 仏法は、仏と我々の関係は「一」だと教えてくれているのです。対立的にみて、信頼するとか、信じ込むとか……、世俗での普通の「信」を考えていた関係を翻(ひるが)されて、仏と私の関係は「一」という関係です。一体という関係です。身土不二、依正不二という言葉で表現されるように、対象化ではなく一体の関係です。仏と衆生の関係が「一」の関係になることで、はじめて衆生は「仏、おわします」ということを否応なく感得するのです。
 私が対象化して周囲・環境・状況を見る限り、それらは自分の思い通りにならないものになって行きます。仏法の理念を示す、三宝印に「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静」がありますが、悟りの内容として、この世は無常・無我の世界だと明らかにされているのに、我々はこの世に「常楽我浄」ありと、無いモノを探し求めているのですから。
 我々は我見で、この世に「常楽我浄」はある、有るはずだ、いや有って欲しい、いや有ってくれなければ困る、と勝手に思っているのです。無いモノをある、有って欲しいと希望的観測をして、追い求めているから裏切られるのです。それは真実が露出してくるということです。そして、自分の思うようにならない、外の諸々の事象が私を苦しめ、悩ますと愚痴をいうのです。外の世界を清浄なものにすれば、私を含め、全ての人が苦しみ、なやみから解放される。そのことを追い求めるということが人間としての理想だと思い込んでいるのです。
 時にはその考えで、人間を裁き、その方向に進まない人間は駄目な人間だ。そうしない人間や反対する人は罰すべきだと……………、全ての人のためといいながら結果として、できる人と出来ない人、志の同じ人、違う人の差別を生み出して行くのです。涅槃寂静の世界から見みえる我々の迷っている世界の実情なのでしょう。
 私を苦しめ、悩ます原因は外の事象ではないと仏教は教えてくれていたのです。外の事象は縁であるということです。私を苦しめ、悩ます大元は私の無明・我痴であり、そのための我見・我慢・我愛が原因ですよということです。それは仏の悟り、目覚め(涅槃)から知らされる真実なのです。
 そんなに我々の思考を悪く言わんでもいいのではないか、人間は迷っている、智慧がないと言うと、この世には何んにも確かなものは無くなってしまうではないか。 そう言いたい気持ちも痛いほど分かります、自分の実態ですから。しかし、分別で全てを把握できるはずだということも問題はあるのではないでしょうか。我々が生きてきたことで分別では説明出来ないことはいくらでもあるということが、人生経験で事実として身にしみてわかってきます。しかし、人間ははからう存在、はからうとは分別するということ、分別するとは対象化するから疑いを免れないということです。人間は絶えず、どんな意味があるのだろうか、どんな価値があるのだろうかと、意味づけ、価値付けして自分というモノを確かめていかざるを得ない存在のようです。
 分別を超えた世界、涅槃との接点を持ちながら生きている人(よき師・友)との交流の中で智慧の働きに触れていき、分別の思考の問題点を知らされ、対象化することの迷いに目覚め、智慧をいただく歩みに転じられていくのです。
 私と私の周囲の事象は対立的ではなく「一」という関係で受け取るとき、究極的な「疑い」「不信」を乗り越えることが出来たことになるのです。乗り越えたということは「疑う」必要がなくなった、明らかになった、そして、その展開のさきに「法然上人にだまされて地獄におちても後悔しない(歎異抄、第二章)」と展開していくのです。
 最近、93才のジャーナリストの言葉として「60才からが人生の本番、人間は60年間苦労して、やっと物事が分かるようになる」が紹介されていました。

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