8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2552)

 私を苦しめ、悩ますもの(5)

 人間の理性知性分別のあり方は、課題がでてくると、課題の問題点を出来るだけ洗い上げて、問題点の内容を検討する。問題点の原因を考え、問題点解決のための優先順位をつけながら、課題解決に向けて、取り組んでいく。その結果うまくいくことも、うまくいかないこともある。順調にいって課題が解決すればいいのですが、思うように解決しない場合は、「困ったなあ!」となる。これが我われの多くの苦悩のもとになることであります。言い方を変えれば「思うようにならない」と言うことです。この事の問題点の一部を指摘しているのが以下の養老先生の文章である。

 現代:(養老孟司、1937年生まれ)
 現代社会には、大きな特徴が二つある。70才まで生きてきて、その間の変化を見ていて、そう思うようになった。
 一つは「ああすれば、こうなる」である。世の中のすべては、これで進行する。私はそれを批判するが、多くの人が「それでなにが悪い」とポカンとするのではないか。
 むずかしく言えば、予測して、制御する。現代人はそれしかやらない。でも、それが可能になるためには、じつは条件がすべて把握されていなければならない。しかもそう予測しているのは、現代の自分である。その自分は、行動した結果,変わってしまうかもしれない。
 恋愛をして、結婚する。それが必ずしも幸福な結末にならないのは、なぜか。結婚することで、自分も相手も変わるからである。「本当の自分」があると思っている現代人には、通じない話だと思うが。
 こんな話をすると、「じゃあ、どうしたらいいんですか」と必ず訊かれる。ホラ、その質問自体が「ああすれば、こうなる」でしょ。そう教えても、まだ気が付かない。その世界から、もう出られなくなっている。
 もう一つは、情報処理である。じつは「ああすれば、こうなる」が可能になるのは、情報の世界の中だけである。すべてが「すでに情報化されている」必要がある。だから医者は検査を重視する。じつは検査を重視するのではない。検査の結果、つまり情報しか見ていないのである。生の患者さんなんて、気持ちが悪くて、見ていられない。そう思っているのであろう。なぜなら、生きている人間は時々刻々変化するからである。そんなもの、扱えない。つまり情報処理ができない。
 その結果、なにをしなくなったか。「情報化」である。情報化を機械にやらせるのが検査である。それなら自分で「情報化する」能力は衰える。運動しなければ筋肉は発達しない。それと同じである。こう述べても、なかなかわかってもらえないだろうなあ。年寄りはそう思う。言葉は情報で、情報は全てを伝えきれないからである。(GEの医療向け宣伝誌より)

 我われが思考する場合、問題解決のためにあらゆる場合を想定して、課題に関わるあらゆる要素を網羅しておく必要があるのです。(高校生の時、数学の問題を解くときにいろいろな条件下で答えが違って来るので、いろいろな場合を網羅することが求められたことを思い出す)
 縁起の法はガンジス河の砂の数の因や縁が仮に和合して、今の事象(現象)があると教えています。仮にあるということは私について言うならば、確固とした「私(我)」はなく“無我”ということです。たまたま今、現象として存在あらしめられている、ということです。「生身の私」も仏教の智慧で見ると無常、無我の性質を持つものであるということです。常に変化する生身の人間を把握することは難しいので、ある時点で時間を切って固定化(動かない物として)して情報化するのが検査といわれているものです。
 我われの理知分別は常に変化するものをある時点で固定化して情報化して、課題の構成成分を検討して、経験による“勘”や物事の法則、等々を考慮に入れて考えていくことになります。工業製品を作るように部品の集合体が製品であるというときは問題な少ないのですが。生物、人を含めて生き物を対象として考えるとき、全てのいろいろな要因がもれなく把握されてないと判断に間違いが起こるということです。
 この過程で仏教の指摘する問題点は(1)常に変化するものをある時期に固定して情報化して認識している問題点。(2)全ての構成要素が理知分別で把握できているという楽天的なあり方をしている問題点。(3)「縁」を大切にする縁起の法に依らず、因果律で把握しようとして問題点。等である思われます。
 理知分別は「ああすれば、こうなる」と予測と制御で、管理していこうという性質をもっています。管理して分別の思い通りにことを運ぶということに快感を感じるという信条のようなものをもっています。機械部品の組み立てで製品を作る時は、多くは予定通りに行くでしょう。テレビニュースの中である種の電気製品は1億に1個以内の欠陥品の頻度が許される品質管理を求められているという報道がなされていました。それぐらい予測と制御が実現できているということです。
 しかし、生物では特に人間では不確定要素がたくさんあり、なかんずく精神的な要素はほとんど形や数字で情報化できないものが多いのです。時々刻々と変化する個人の心の好き・嫌い、愛・憎の気持ちを情報化することは極めて難しいと思われます。そういう複雑な因や縁を構成成分としている存在の為に、人間関係に関わることは思うようにいかないことが多いのです。
 人間の内面性の自然性(人間の野生性と言った方が良いかもしれないが)は理知では管理できないことが多いのです。児玉暁洋師は人間の知性と、異性に対する行動性、経済的な問題に対する態度は比例しない、という趣旨のことを書かれていました。分かりやすく言えば、世間的に評価される知性と、金の問題と異性問題は比例しないということです。動物的な欲望や、感情の過剰な露出を理知分別は管理できないので戸惑うわけです。
 人間の一番自然な姿、「老・病・死」を分別は科学・医学等を使って管理しようとして「不老不死」を目指すも、管理不能という事実の前に悪戦苦闘しています。管理できないことには目をつぶって見ないようにしたり、あるいは施設に囲い込み衆目の届かないシステムを作って、“無い”ことにしたふりをするのです。
 しかし、否応なしに老病死に自分や家族が直面した時は、どうせ死ぬのなら早く死んだ方がいいと言ったり、自分は役に立たない、迷惑をかけると、分別の醒(さ)めた目で自分を廃品の如く見て愚痴を言ったり、ときには自分で自分を傷つけていくのです。仏教抜きに理知分別でやっていける「あすれば、こうなる」と豪語して良い方向性を目指しているつもりだけど、老病死の現実を受け取れずに結果として「自業自得」「自縄自縛」になっているのです。ボーボアールは「人生の最後の5年、10年を廃品としてしか見ることのできない文明(思考)は挫折していることの証明なんだ」という趣旨の指摘をされています。理知分別はこれにたいしても「ああすれば、こうなる」を限りなく繰り返していくしかないのでしょう。しかし、結果として敗北を繰り返していくしかないのです。分別を超えた視点、智慧の目、無量光に照らしだされる道、釈尊の教えに耳を傾けなければなりません。ここに浄土の存在意義があるのです。

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