9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2552)

 ある新聞(商業新聞ではない)を読んでいたら驚くことが書かれていました。私の日頃抱いてイメージとは違っていたからです。
 日本の治安は良くなっているか? 悪くなっているか?
 最近のマスコミの報道を見、聞くにつけ、サリンの事件以後、日本の治安は悪くなり、無差別な殺人事件などの報道を聞くと、凶悪犯罪が増えてきているというイメージを私は作り上げていたのです。その新聞で識者が指摘しているのは警察庁の統計です。これは公式の国の統計ですから、限りなく正確だと思うのです。それによると、凶悪犯罪などの発生件数は最近の5年間、減少傾向にあり、平成19年は一番少ない件数で示されています。事件での犯人の検挙率はやや悪化していますが。種々の犯罪の件数のみで判断すれば、一番治安のいい時期ということが出来ます。そのためか中国の治安関係者は日本の制度から学ぼうとしているとのコメントに出会うことができました。
 それなのになぜ? マスコミの報道からはそんな情報は読み取れません。 その識者は警察やマスコミから流れ出る情報のかたよりの理由として次の2点を指摘しています。警察にとって治安が悪いという国民のイメージは警察への予算の獲得に都合がよい。 警察関係の企業(警備やそれに関係する器機関係の企業など)がたくさん存在していて、治安対策の需要が増えることは関係者に好ましい。マスコミに関してはテレビ・新聞や週刊誌がセンセイシヨナルな記事で販売数を増やす効果があるという。まさしく商業主義に毒された偏った情報が流されている可能性があるということです。我われは目を凝らして情報を十分に吟味して見ていく必要があるということでしょう。
 ある健康関係の新聞記事に企業寄りと思われる記事を見て、その新聞関係者にそのことを電話で告げたら、企業から提供された記事だという。企業の宣伝は新聞紙面の下にはなかったですよと告げると、裏面に有ったでしょうと言われた。マスコミの報道も注意しなければ情報操作がなされるという危険をはらんでいると思われました。
 新聞・雑誌の医療・健康欄の記事を読んで思われることは、どうしたら健康に成れるか、健康が維持できるか、病気を良くすることができるか、という記事がほとんどです。多くの読者の関心事に応えるための記事ということでしょう。それらの記事には、それらの治療などをしても、最終的には老病死につかまるのですよ、という記載は全くなされてなく、良くなって、それがずーっと続くかのような幻想を抱かせる内容になっています。老病死に近づいて来た私のひがごとかも知れませんが、これが医療界の実態でもあるのです。
 我われは世の中の現状の認識に情報源の制限はあるが注意をして行かなければならないということですが、我われが判断する情報は自分の理知分別で把握できる情報だということにも注意しなければならない、と仏教は指摘しています。我われの拠り所の理知分別は、実証できるもの、理屈の付くモノ、論理で説明できるもの、形、数字、色で示せるものを確かな情報として、積み重ねていっています。 実証できないもの、感情みたいな形で表せないモノ(嬉しい、悲しい、寂しい、恥ずかしい、くやしい、うなずけた等々)は情報として尊重されません、ときには無視されます。そのために大切なものは漏れてしまう可能性があるということです。感性・感情がらみのものはほとんどが抜け落ちるでしょう。
 師がよく話されていた喩に「母の涙」があります。「母の涙とは何か?」、母の涙を分析すると、季節は物哀しい秋に出現することが多い。涙の成分はほとんどが水で電解質が微量に含まれている。一滴の容量は平均なんmlで、重さは平均なんmgである。生物学的な分析を加えて、涙線の涙管の平滑筋が緩み腺細胞から分泌され、分泌の様式は何何である。それらの分析結果を統合して、「母の涙」の全容が分かるだろうか。母の心情は抜け落ちてしまっているだろう。
 工業製品の生産には理知分別の科学的合理的思考は、無くてはならないものであり、大きな力を発揮してきました。しかし、人間のような、肉体・感性などを併せ持ち、複雑な機能をもっている生物の把握には、まだまだ不充分であるのです。人間という生き物の把握には科学的知識を取り入れて医学・医療が進歩してきたとはいえ、精神活動も含めるとまだスタートをしたばかり付近ではないかと思われます(私の独断)。全体が見えてないということです。
 我われの頼りにする理性・知性・分別を全体が見えてないが故に、仏教は“無明”と言い当てています。明るさがない、暗闇であるということです。智慧が足りないというのです。仏教なんか無くても人間の理知分別で十分だ。人間がしっかり考えて行けば、理想のいい社会が築かれていく、と自信を持って主張するけれど、理知分別が煩悩に汚染されているから問題なんだと指摘するのです。たとえば理知分別の考えの心に、勝ち負けに執われる心が潜んでいます。それは我が身が可愛いという心と、他人と比べて上だ、下だと、優劣・勝ち負けに執われる心です。
 最近戦争中に理化学研究所で原爆の研究に取り組んでいた研究者のノートが見つかったと新聞で報道されていました。その研究者は当時の秀才で知的には日本のトップ集団の一人であったでしょう。しかし、していたことは人殺しの道具を作っていたのです(松本市と東京でのサリン事件も同じことでしょう)。研究者を責めるのではありません、私でも同じ環境にあれば同じことをしていたでしょうということです。我われが信頼を置くところの理知分別も使いよう(置かれた状況・条件によって)によってはトンでもないことをしていく可能性を秘めていることを「無明」と言い当てているのです。我われのよりどころの理知分別は物事の全体をみる智慧が足りない。なおかつ分別は煩悩に汚染されていて、汚染されている(邪見・矯慢)という意識すらないということです。
 人間の生老病死の四苦を超える道に目覚めた仏陀は、人生における憂・悲・悩・苦は何処から起こるかという問いに対して、それは「死すべき生」を生きているからであると答えられているのです。我われの分別の発想は老病死の原因を見つけ、すなわち加齢現象の機序を解明して、病気の原因を追及して、不老不死を目指すのです。しかし、死は避けられないものと、うすうす分かっているから、少し妥協して、若さと健康を少しでも多く維持し(老病死を先送り)、死を忘れて生きることにはげむのです。
 仏陀世尊の答えはまことに根本的です、病気によって苦しむのはあなたの健康が『病むべき健康(死すべき生)』だからだ」、と言われても一瞬、我われは何を言われているのか分からないのです。如何にして「死すべき生」を乗り越えることができるか? という問いに仏教独自の領域が展開されていくのです。
 仏法の課題解決の道は、久遠のいにしえ以来のいのちの歴史、目に見えない迷いと苦悩のはてしない過去を知り通し、このいのちの帰する先を見通した如来の智慧の目でいのちの真実に目覚め、生死の四苦を乗り越えて生きることであると教えているのです。良寛さんは文政11年(1828)の三条大地震で、子を亡くして悲嘆にくれる友には次のような手紙を送っています。「地震は信に大変に候。---中略---。しかし災難に逢、時節には災難に逢がよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候」。現前の事実を智慧によって受容する、それは悪を転じて徳となす仏の働き(南無阿弥陀仏)によるのです。世間の発想だと、そんなこと信じられないとなります。しかし、我われの思議を超えた南無阿弥陀仏(無量寿・無量光)との出遇いにおいて、うなずくことのできる道なのです。

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