10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2552)

 「維摩経」の「仏国品」には舎利弗が「仏陀はお悟りになられた。諸法の実相、平等の法を悟ったとおっしゃるけれども、この世の中はどこにも平等はなく、相変わらずでこぼこで、瓦礫の山であって、清らかなもの、真実なるものはどこにもありません。あなたがさとったとおっしゃっていることは、あなたの頭の中、胸の内にある話であって、他の者にとって、それはまったく見えないことであり、関係のないことだ」と釈尊に問うた、と出ているそうです(平野修先生の講義録より)。釈尊と弟子の生々しい問答が目の前に展開されています。
 現実に悩める衆生を救う世界(涅槃寂静;全ての束縛から解放された世界)に目覚めたと言うけど、それはお釈迦さんの頭の中だけの現実離れした話ではないですかと責め、問われているのです。現代人にとっても同じ課題が聞法(学仏)の場でよく問題になることがあります。それに十分納得のいく答え、対応がなされているだろうか。
 釈尊は具体的な赤裸々な訴えにどう応えるか。それはまさに仏教の存亡が問われる、問いかけです。仏の悟りの内容を、衆生が感得して、分かってもらうために熟慮・思索されて、考え出して展開されたのが浄土の世界です。仏の悟りが分からない、うなずけないという衆生に、「仏陀のさとり」を衆生の環境(浄土。眼に留まり、耳に留まるように)にすることで、衆生に分かりやすく、提示されたのです。
 大無量寿経が阿難、及び未来の衆生を相手に説かれたのは上記のような流れの中で仏滅後のことも配慮されてのことだったのでしょう。浄土は在家(欲を認めた生活をする者)の衆生のために救われる道として説かれたのです。
 大無量寿経に48の本願を説くことで、我われには教えとして示され、肉眼には見えない「はたらき」の世界を感得できるように表現され、浄土を説かれたのです(浄土建立)。
 仏陀のさとりの世界が、清浄であり、真実の世界であるということを人々の目に見えるまでに、人々の耳に聞こえるまでに明らかにしていかなければならないという課題をもったのが、浄仏国土の行(国土を仏のはたらきで浄化する)であったわけです
 衣食住や空気や水などの自然環境は非常に身近なものです。しかし、仏の悟りがそれ以上に身近な衆生の環境になろうということで表現されたものが、浄土の荘厳であると思われます。荘厳とは見えない物を見える形で表すこと、それは衆生が感得できるように配置換えをしたという意味であると教えて頂いています。
 仕事や生活の環境が私を苦しめ悩ますモノだと、生きていくことが楽しくありません。浄土は我われが喜んで生きていける環境を衆生に届けようとして展開しているのです。世間のどのような環境(娑婆とは種々の力の支配する環境です)であっても、仏の悟りの世界が、身近な環境となって人間を生かしていくということです。逆に人間の方から言いうと、そこでは喜んで生きていけるということです。そういう意味を表そうとして、本願によって浄土建立ということが展開されているのです。
 我われの普通の発想では、浄土は理想的な国とか、そこに生まれて楽ができ、楽しむことができる所という思いになっています。しかし、浄土という場で願われていることは衆生を教化し、衆生を悟らせるためということです。浄土に出遇った者は生きていく勇気をいただくのです。そんな人に赤祢さんという人がいました。彼女の詩を紹介します。
 「ぞくぞくと 喜び湧きて この朝は 早く起きけり ひとり勇みて」
 「申しても申しても 申し尽くされぬ 感謝に溢れ われはゆくなり」(赤祢 貞子)
 赤祢さんは7歳のとき小児喘息を患い、以来病弱で、就職も結婚もできないまま。明日おも知れぬ日々の中で、念仏に出遇いこの歌を詠んだ。この喜び、この感謝の心に見倣(なら)いたい。(林暁宇著「それで死んでも悔いなかろう」北国新聞社出版局刊より)
 我われが仏教の学びをして浄土、仏の世界に近づこうとして、我われはお経という文献を頼りに仏、浄土を理解しようとします。それは我われの理知分別の理解の中に仏教は入るモノだという考えに知らずのうちになっているのです。我われの分別を超えた世界なんかあるはずがないと独断と偏見で囚(とら)われていることに気づかないのです(無明)。衆生には理解できない世界と言った方が良いのかも知れません。さらにいうならば浄土という世界は、われわれが本来知らない世界であるということです。そのために我われがイメージした仏・浄土はほとんど間違った理解になっています。したがって、浄土の世界に生まれたいというようなことは、我々の方からは、まずでてこないということです。
 浄土は衆生の環境となり、衆生を教化し、衆生をさとらせるために、仏によって立てられた世界です。その悟りの世界に出遇うのです。「生まれる」という表現もありますけれども、悟りの世界に出遇うということです。出遇えば「住正定聚(注)」になります。仏教の目標は「正定聚・不退転」を生きる事です。
 仏・浄土を我われは知らないから、もし仏に目の前で出会ったとしても、素通りしてしまうでしょう。衆生は自分の判断とか考えによって、右へ行ったり左に行ったり、あるいは、上を探してみたり下を探してみたり、仏の世界(涅槃寂静、束縛を解脱した、自由自在の世界)を探して右往左往しているのですけど、そういう我われ衆生に仏は浄土をもって出遇うわけです。これが「大無量寿経」の世界です。
 仏の方が衆生を探し、見つけ出し、仏に遇わせしめる。そこに仏の行、はたらきという意味がある。仏の方が衆生の前に現れて仏に遇わせるわけです。
 私の学生時代、某新聞の催し物の欄に、福岡教育大学仏教研究会のお誘いの小さな記事を見つけ、連絡先に電話して約40キロ離れた赤間に出かけたのでした。あれは仏の願い、本願に催されて、師が主催されたお話の場でした。そこで師の説く話を聞いて仏教の世界(浄土教)をかいま見たのでした。私の聞法への出発でした。
 新聞記事を私が見たと言えるかも知れないが、その事実は本願の展開の具体的なはたらき、師を通して展開した浄土の世界、その浄土のはたらきが新聞の記事となり、何か求めるものを抱えた学生の私を探し出したのです。仏のはたらきが私の前に出現したのです。そのはたらきに促されて仏に出遇うべく私の足を運ばせたのです。師に出遇い、教化を受け、僧伽に出遇う。諸仏の長いご苦労・ご配慮を知らせていただき、念仏の由縁にビックリ、感動せしめられ、念仏の道に導かれたのでした。 
 衆生が仏の方に歩んでいくというのが、従来の仏道です。そうではなくして、仏が衆生の環境になるまでに、仏のさとりを表して、衆生のところまで現れ出てくる。仏が仏の国をもって衆生の前に現れ、衆生を迎え取る。それを具体的に表現したのが「臨終来迎」です。
 注;「正定聚」とは、必ず仏の悟りを開き、仏陀になるに定まった位で、退転はしません。

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