11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2552)

 私個人と全体(世間)の関係について(1)

 ある会座で若い人から、仏教の救いと最近起こる事件の被害者やその家族の救いについてどう考えていけばいいのかという質問を受けました。その種の課題は以前の私も抱えていた問題でした。その質問の出る発想の問題点について気づいたことを整理して考えてみます。
 仏教との本格的な接点を持ってなかった頃、世の中な全体をよい社会にするには理想的な体制(漠然と夢想する)を作って、多くの人が満足する社会ができることが望ましいという思いがありました。世の中全体には私は含まれているか、ということを考えてみると、私個人なんて全体からみると取るに足りない極ちっぽけな存在です。私一人がどうのこうのと言っても多勢に無勢です。(そんな私は傍観者でうまいこと良い体制の中に滑り込んでその恩恵だけは享受しようという俗物根性であったのです。)
 全体の体制の中で最大多数の最大幸福というように、多くの人が満足できる体制ができればよいのではないか。その為には社会環境、社会体制、経済体制、医療・福祉体制等をよりよくしていくことで実現できるはずだ。私自身が私的なことを問われる前に人間全体を見通した論理や原則・システムで良い方向へ向かうのが良いのではないか。現実的には現在の悪い点を拾い上げて検討して改善していく歩みの中から良い方向がでてくるはずだ。明らかに悪いとか、歴史的な醜悪な部分を打破してしくことが人間として進歩の歩みではないか。そんな思考の方向性が正しいと考えていたのです。その前提には人間は正しいことをやれる、間違ったことを改善できるという楽観的な考えが基本になっています。そこでは私個人の怠け心、弱い意志、日和見的な考え等は個人的に克服しなければならないことである。そんな弱さはあってはならない、克服できるものである。建て前としてそんな本音の部分は表に出してはならない。公的なことと個人的なことは分けて考えるべきだ、と建前論が大きな顔して展開されるのです。
 これらの思考の展開されるところの由来を、俗っぽい根性の私自身の経験から考えてみると、かって中学、高校の時、数学・物理、英語などの問題を説くとき、頭の中だけで考えて答案用紙に書き込んでいきます。そこではひたすら頭の中(意識)の思考の問題で、自分の心の煩悩性とか弱さとかは全くといって問題にはなりません。ひたすら良い点数を目指して小賢しくなっていったのでした。その余波で科目の好き嫌いというよりは点数のよく取れる、取れないが得意・不得意を決めるようになり、学問的な好奇心というよりは、点数のとれる、とれないが優先されるようになり、感性よりも実利、効率を尊重して、人間として偏った思考をしてしまいがちになっていたのです。
 その後も、ひたすら知識を増やす教育を受けてきて、ペーパーテストをパスすることを至上の課題として学生生活を送ったのです。崇高な人間性、人格の涵養を目指した授業もあったであろう、選択科目として選ぶことも可能であったでしょうが、私に学ぶ姿勢がないのですから、縁がないまま通り過ぎたのであろうと思うのです。
 頭でっかちで小賢しく、対象論理の思考にどっぷりと染まった頭は理知分別の傲慢さのなかに陥ってしまっていたのです。いくら抽象的なきれい事をいっても実証できないモノは認めない。数字、形、色で見える形で示せないモノは信用できない。哲学、倫理、宗教なんて暇な変わった者がするものと無関心で無視していたのです。(存在論的認知症と某宗教哲学者が指摘)
 ただ田舎の純朴な環境(仏教を大切にする家風ではあった)に育っていたから表面上は真面目で素直さはあったようです。九大の仏教青年会の総務をしていて寮の会計監査をしなければならなくなり、会計監査をしたときびっくりしたことがありました。それは、私は農業をしていた両親が交通事故で亡くなって後、伯父さん伯母さんにお世話になって大学に行っていたので貧しいながらも金銭感覚では収入に応じてつつましく生活するもの、まして学生は浪費するなんて考えられなかったのです。そういう意味では貧しさの中でも収支はきちんとするものと育ってきていました。ところが監査をして何人かの寮生が小さな規模の寮会計に借金をして収入不相応に生活している寮生のいる現実に出会ってびっくりしたのでした。自分の内面性を律することは学力(知性・理性)と比例すると漠然とは思っていたけれど、決してそういうことではないということを知らされたのです。後に仏教の学びの中で児玉暁洋師が学問的能力(学歴、知的能力)と金銭感覚と異性関係で自分を律する能力は比例しないといわれて、やはりそうなのかと新ためて頷いたことがありました。
 対象化して考える思考の中では自分を問うのではなく、ひたすら外的に物、私の周囲の条件が整えることが人間の豊かさ、満足に結び付くとの強い信念(結果として邪見矯慢)で外側ばかりに目が向いて、自分を見つめるなんて私的なことだからとほとんど考えもしなかったのです。自分の内面を考えたとしても、人間の弱さ、愚かさは克服できるもの、いや克服していかなければならないもの、頑張ればできるのだ--------。できない人は、怠け心の克服できない人は-----どうするか??。人間のヒューマニズムは前進、改善、進歩を信条として、出来ない人は-----そこまではどうするかは考慮にいれてない、できるだけ多くの人に頑張ってもらうという前提で思考されてきたように思われます。そこでは全体を動かす理想的な論理、主義があって、それに従って理想を追い求めていくのが人間のあるべき姿ではないか。そこには人間のどろどろした個人的な煩悩性を問題とする雰囲気はありません。いつの間にか影の部分に隠されて、そんな課題はないかの如くに、そして多数決の原理が働いて、全体が動いていくという錯覚を持ってしまっていました。全体が大事で、個人的なことは表に出すべきことではない、建て前と本音、私的問題と公的問題は区別して考えるという思考傾向になってしまっていました。対象化の思考では、自分を問われない、責められないという、自分を除いて外側を問題に主として考えていくことになってしまっています。仏教に出会って気づいてのですが私が除かれていることで全体を含んだ思考になっていないのです。私が含まれてないと言うことが決定的に問題です。
 また日常生活の実感として、日本人1億2千万人の中の一人、世界では約70億人の中の一人、ちっぽけで取るに足らない存在という思いと一緒になり、全体のことを考えることに重点を置くようになっていたのでした。確かに対象化して客観的に私個人をみると、全体の中で、風に吹かれて飛んでしまうような小さな割合を占める私、選挙で投票しても私の一票ぐらいで全体の動向が変わることはないということです。自分は中心ではなく、辺縁にいるという感覚です、大都会の雑踏の中で大衆の中の一人という何とも表現のしようのない寂しさ、無力感です。
 しかし、仏教の教えを聞いていく歩みの中で仏教の基本的な考え、「縁起の法」を知らされる時、人間は全て「遇縁の凡夫(存在)」(縁次第では何にでもなる可能性を秘めた私)と目覚めていくのです。それと同時に自分の小賢しさ(視野の狭さを含めて)に気づかされます。仏の智慧に照らされれば照らされるほど、自分の愚かさ、邪見?慢への確信というか疑いなしという目覚めとなっていくのです。照らし出され、自我の殻が照らし破られる、それは同時に対象化の思考(我われが大事にしてきた基本の考え、対象論理)の根底にある基本の“疑い”すらも、うち破るものでした。結果として仏智疑惑は霧消させられてしまったというしかありません。そこには結果として「人類の代表としての私」という自覚の誕生があるのです。親鸞聖人がその仏のはたらきの不思議さ、出遇いの感動を讃えて「誠(まこと)なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法」と総序に心の底からの喜びをうたわれています。
 私個人よりも全体の人間が救われる道と思っていることは一見、まともであるかのように思われるが、私の理知分別に潜む我痴、我見、我慢、我愛の汚れに気づかない決定的な間違いを犯していることだったのです。仏教はそれを無明と言い当てています。「明かりがない」、「暗い」ことだと、しかし、我われにはその暗いという自覚は全くありません。いや逆に我われの方が明るい思考だと主張するのですから(存在論的認知症)。(続く)

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