12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2552)
私個人と全体(世間)の関係について2(前回よりの続き)
私個人と全体の関係を考えてみると、個人の集まりが全体である。全ての人の救いが実現することを考える時、その基本単位の個人が救われなくて全体の救いは実現できないと考えます。しかし、全ての人が救われるなんて理想の理想である。せめて「最大多数の最大幸福」といって世俗での幸福を追求していくことが現実的ではないかと考えていくのです。
「最大幸福」で意味する幸福について、一つの問題点があります。世俗的には人間の幸福を決めるのは個人を取り巻く外側の条件であるという考え方です。人間を「欲望する存在」と今村仁司先生が定義されていましたが、外側の条件が「欲望」を満たす、その満足を幸福と考える傾向になっています。煩悩を楽しませることが、この世の楽しみだという考えです。仏教の教える満足はそれではありません、「存在の満足」と言えるところです。
世俗の思考は、仏教の示す「煩悩は身と心を悩ますものだ、そして人生は思うようにならない(苦)」ということに目をつむって煩悩を楽しませることに喜びを見出そうとしています。結果として思うようにならず、人生の後半は愚痴の人生になってしまうことを、医療・福祉の現場の多くの高齢者が実証しています。
日々の診療で縁のある人には仏教の心を対話の中で粘り強くお勧めするのですが、長年なじんだ世俗の分別の思考に固執して、「癌になったらお終い」「寝たきりになったらお終い」「役に立たなくなったらお終い」と、取り越し苦労の不安を生きている患者さんが多いのです。仏の智慧の世界を対話の中で少しずつ話題にするのですが、「いろいろな考えがありますからね」「仏教は難しいからですね」「我われ凡人にはなかなか悟れません」とさらりと身をかわされるのです。そして内心、世間の「常識人として私」という自負を持たれているように思われるのです。
外側の条件、すなわち経済的な豊かさ、社会的評価、身体的健康さ、家庭環境・住環境の良さなども確かに大切な要素です。その世俗的なモノサシが幸福への重要な要素だとすれば、その相対性の故に、恵まれたものと恵まれないものが出てきます。それ故に最大多数の幸福を目指すのでしょう。しかし、世俗的にいかに恵まれていても必ずどこかにほころびが出てきます。最終的には老・病・死の現実に捕まりそうになり、逃げ廻ろうとしても捕まってしまうのです。それは不安・苦悩を伴う愚痴になります。
不安を予防するために保健・医療・福祉・生命保険などと対応して、国防のように有事に備えます。しかし、不安解消のための備えは、備えれば備えるほど不安は高じていくといわれています。平和を維持するための国の防衛と違って、老・病・死は一時的に逃(のが)れたり、先送りしたとしても決して逃げ切ることはできないからです。
理知分別の思考は自分を抜きにしたような傍観者的思考(対象論理)となり、蜀山人(しょくさんじん)の狂歌「いままでは 他人(ひと)が死ぬとは 思いしが おれが死ぬとは こいつあたまらん」の如く、自分を内省する視点が十分でないために、現実に自分の老病死に直面すると、その思考の足りない面(自己を除いた思考の矛盾点)や思考のゆがみが露呈するのです。
もしその時点で心の柔軟性があるならば、自分を含めた全体の思考(一体化、相即の論理、絶対的矛盾の自己同一、仏教の智慧)へと導かれるチャンスなのです。しかし、現実の多くの人たちの心は、老化現象の動脈硬化の如く、心の柔軟(にゅうなん)性を欠いて、思考の硬直化、柔軟性のなさを対話の中で私の前に披瀝されるのです。そんな人生の先輩方は「私に仏教の教えに遇うことの難しさを身を以て教えてくれている菩薩さんであろう」と念仏で受け取っています。
対象化した傍観者の視点では全体が見えてない、一番大事な私が抜け落ちているからです。仏教の視点は私を含んで全体である。私を抜きに全体はあり得ないのです。私を抜きにした論議を虚論(けろん)として仏教は嫌うようです。自分を見つめて時々は反省して自分を内省していますと言いたいところですが、仏の智慧(無量光)で照らされるということがないと、中途半端で徹底しないのです。仏教のお育てをいただく歩みの中で、自分を抜きにした傍観者的な話題や対話には自然と関心が薄れていきます。週刊誌的な記事や新聞の三面的な記事内容には好奇心や俗物性が刺激されて覗(のぞ)きたいという心はあるが、それらに心が振り回されるのは時間が勿体ないという気持ちになっていくのです。
聞法して仏教のお育てをいただき、智慧をいただく念仏の歩みの中で、自分の愚かさ(邪見?慢悪衆生)、分別の弱点を自覚して、救われるはずのない私と、自我の姿(カラ)を照らし破られます。気づかされた煩悩具足の私に「疑いなし」と確信を持つことができるようになります。同時に縁次第では何をしでかすかもしれない私(縁起的存在)、そういう在り方が人間としての普遍性であると知り、そんな私への自覚・自信へと導かれるのです。
そんな私に、救いが実現しないとすれば、他の全ての人の救いがあるはずがない。自分抜きの全体と言うことはあり得ないと思考するようになります。そして私を除いたような思考、傍観者的な思考をしなくなります。常に自分との関係で、自分にとってどういう意味があるのか、と考えるようになるのです。その思考の延長線上で「人類の代表としての私、救われない者の代表、凡夫の代表としての私」と気づかされていくのです。私個人ひとりが救えないようなものは全体の救いになるはずがないとの確信です。
浄土論に「観彼世界相 勝過三界道 究竟如虚空 広大無辺際」(浄土の世界の相を観ずるに、三界(世俗、世間)の道に超え、勝(すぐ)れている、徹底して虚空の如し、広大にして辺際なし)の文章がありますが、「辺際がない」ということは、理知分別では浄土は宇宙のように広い世界、その中で多数の中の私、私は小さい、多勢に無勢、私なんか隅の方にあるかないか分からないような、ちっぽけな存在と考えてしまいがちです。しかし、そうではなく、仏智に照らされる私の姿、私は中心、真ん中におる、と感じるのを「辺際(へんざい)がない」というのです。誰もが真ん中にいると感じることのできる浄土の功徳を示しているのです。そのことは、私は「人類の代表としての私」となるということを示していると思われます。
なぜ、「人類の代表としての私」かの理由を繰り返すと。
仏智に照らされて、「縁起の法」による在り方をしている私と知らされます。そして、どういう縁に遇うかによって、変化していく私(固定した我はなく、無我という在り方をしている私)、すなわち遇縁の凡夫(注1)という気づきになります。同時に人間はみんな一人一人が「遇縁の凡夫」という在り方をしているのだという目覚めです。そして「遇縁の凡夫」ということにおいて人類は皆、平等だという確信です。また私一人の歩みが全人類の課題に応答するほどの重みがあり、その凡夫の代表が私という自覚になるのです。(続く)
(注1)遇縁の凡夫 : 全ての人、一切の人は元は皆凡夫である。何に遇うかという縁によって善凡夫、悪凡夫となる。「善凡夫」とは遇善の凡夫、「悪凡夫」とは遇悪の凡夫である。「遇大の凡夫」とは大乗の教に遇うことのできた凡夫、これが菩薩であり、観経で言うと上品(じょうぼん)の人である。「遇小の凡夫」とは声聞、縁覚といわれる人で、小乗の教に遇うた凡夫である。わが身を清潔に保ち規則正しい生活を送り、戒律を守り、やるべき事をやる人である。これを中品の人という。「遇悪の凡夫」とは、悪をする縁に遇うた凡夫で下品の人である。人間には色々な人がいて、優れた人もあり、劣った人もあるように見えるが、もとは皆凡夫なのである。その凡夫が何に出遇うかという縁によって上品(菩薩道の人)、中品(二乗(にじょう))、下品(悪人)の人となるということ。 |