1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2552)
私個人と全体(世間)の関係について3(前回よりの続き、最終回)
仏の名告り、本願、南無阿弥陀仏によって智慧(不自然さが自然に戻され、非本来性が本来性に戻されるはたらき)をいただき、我われは初めて地獄・餓鬼・畜生性の存在から人間になることができるのです。南無阿弥陀仏の教えが受け取れなければ人間の格好はしていても、動物の「ヒト」にすぎないような生き方になり、石ころや木や犬や馬みたいに存在しても当事者の実存感にはならない(よい生活はしてきたが、本当に生きたことがないという愚痴)まま、仏の目から見ると暗い世界から冥(くら)い世界(注1)の流転を繰り返すだけになるのです(本人は冥(くら)いと思っていないのですが、結果として愚痴になっている)。
智慧が無いがために存在することの有り難さが分からない、私がここに居ることを、当然のことと考えて、「存在の満足」に目覚めないが故の内面の不足・不満の心を満たそうとして、何かいい物はないかと外側をきょろきょろ見回して、追い求めるイキイキを生きることの愚かさに落ちいっているのです。
私の内面、私の本当の姿を智慧に照らされて陰(かげ)なく見る視点を内道(内観)といい、自分の正体への自覚なしで自分の目(我見になりやすい)で外を見る視点を外道というのです。私たちはいつの間にか「自分のことは自分がいちばんよく知っている」と豪語して自分を分かったものとして思考しているのです、そして自分勝手に自分の好みに沿ったイメージで自分の虚像を作り上げて、それに執われていくのです。私の意識は、我執のエゴが働き、自己中心の思考をしていくのですが、自己中心というけれど「人類の課題を背負った人類の代表としての私」というような意識ではなく、表面上は自分のことを問題にしているようだけれども、そんな私は取るに足らないちっぽけな私(大自然の中にあって芥子粒の如き極小の存在)と思わせる思考です。仏の教えには耳をかさず、外側の不特定多数の世間の目を気にした、常識的な私です。そこでは善悪、好き嫌い、苦楽、損得、勝ち負けに振り回される小賢しさが本音として露呈されていきます。そして地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を輪廻する私に埋没するのです。結果として、空過流転の愚痴になっていくでしょう。それは虚しい、未練を残す、不完全燃焼の傍観者的人生へと直結していきます。虚しさはゼロという意味です。そんな人生を50年、100年、千年生きても、0×1000=ゼロ です。生きても生きたことにならないのではないでしょうか。間柄的な存在、人間という自覚(目覚め)が無ければ、石ころや犬や猫と同じということでしょう。存在論的には「無」ということです(存在論的認知症、注2)。
仏教の本願の心は「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった、という人生を歩む者になってほしい」、であるとお聞きしています。本願を実現するべく浄土の世界を展開され、南無阿弥陀仏の名号となり、この世で我われのために具体化して働いているのです。一歩前を歩かれる先輩方の、仏をほめたたえる讃嘆を聞き、念仏者の生き様に触れることで、具体化した浄土を感得できる世界です。
縁起の法では時間的、空間的無量の因や縁が仮に和合して、私が存在あらしめられている。時間的、空間的に無量の世界を“空”、“如”と表現して、その世界が動き出して仮に和合する、動き出した姿を“阿弥陀仏”という(注3)。その動きに触れた者は、圧倒的な大きさに触れて“参った“ すなわち”南無“となる、阿弥陀仏に触れた者は必ず「南無」となるのです、それが「南無阿弥陀仏」という表現です。言葉となって、如なる世界が具体化したのです。言葉なしに人間は思考できません、言葉の中を生きることにおいて、はじめて人間としての生活ができるのです。そして言葉の中の言葉(南無阿弥陀仏)に出遇うことで人間として成就することができると仏は教えるのです。我われは物質が先にあってそれに名前を付けると考えますが、言葉があってはじめて人間の実感として実存することになるのです。せっかく人間に生まれながら根源的言葉・南無阿弥陀仏に出遇わないならば六道を輪廻して迷いをまぬがれることはできない、それは存在論的認知症(注2)に陥ることになるのです
「阿弥陀仏」が分かるということは必ず「参った!」・「南無」・「お任せします」と頭がさがることです。「仏まします」ということが分かるということは「私の人生は迷いの人生であった(頼りにしてはならない物を頼りにしていた)」と分かることです。それは私の「南無阿弥陀仏」という念仏になるということです。阿弥陀仏が本当かどうかを私の分別で証明しようとすることは無理なのです。仏が働いて私が救われる証拠は、法蔵菩薩の本願が成就して阿弥陀仏になったところにあるのです。本願の心に触れて私が南無阿弥陀仏と念仏するところに証拠があるのです。
「仏ますます」ということが分からない原因は対象化の思考だからです。対象論理は「二」という考え、私と向こうを相対的に立てる(対立的に二つ立てる)。その背後にある基本の考えは「疑い」です(先ず疑いから始まるということ)。外側の諸々の事象は疑いの対象。じっくり吟味して「100%分かったら信用します」という発想です。その発想が覆されないと「疑い」はなくなりません。
あなたが疑いの対象としている周囲の事柄は、全てあなたを支え、生かし、作り上げている関係性のある存在ですよ。疑う対象ではなく、あなたを構成している、あなたと一体化した、密なる関連性のある存在です(縁起の法による存在)。我見を翻して、仏の目での受け取りを促すのが念仏の智慧です、そのことが不思議にも念仏によって実現していた浄土の世界、と感得するのです。自分の姿(愚か)への自覚によって気づかされる浄土は「今、ここ」、そして誰もが「中心にいる(唯我独尊」」と感得できる場という感覚でしょう。
芥子粒の如きささやかな極小の存在が、ただ事でない深重な私の命、仏法の歴史にお出遇いせしめられて初めて、私の存在がただごとでないと驚くのです。「ただ事でない存在である」という意味は、(1)、何一つとして自分の意志、選択もできないまま放り出された在り方ですが、それがそのまま途轍もない使命、歴史を担った存在である。(2)、個人的幸福、救いを突破して、人間の問題を問う存在である、私一人の歩みが全人類の課題に応答する程の重みがあると。(3)、未来永劫にわたって願いに生きる、それ程の願心を賜っているということです。罪業の過去が新たないのちを賜って生き返り、「今、ここ」という場が与えられ、我が身において衆生性を尽くし、未来際を尽くすほどの願心に生き、どこまでも新たに歩んでゆける道が与えられるのです。
対象化を越えた仏の智慧によって目覚める自覚から見える世界。誰もが完全燃焼できる平等の救いの世界。そういう世界に触れた者は対象化した傍観者的な問答には関心が薄れてしまうのです。
注1:弘法大師「秘蔵宝論」(ひぞうほうやく)の序論の末尾より「生まれ生まれ生まれ 生まれて生の始めに暗く、死に死に死に 死んで死の終りに冥し。」
注2:存在論的認知症とは、:「世間の目を気にしながら、傍観者的な人生で、過ぎてみれば、あっという間で空しく過ごした人生であった、空過流転であった。終わってみればどうでもよかった人生。生きても生きたことにならない人生。犬・猫や金魚鉢の魚が実存感がなく、本能のままに外界を眺めながら10年、20年生きたと同じようなものだった。」という感覚を揶揄して実存感においては生きたという実感がないまま終わることを意味すると理解しています。
注3:鈴木大拙の言葉の趣旨:「空が方便として動き出したら、形を取ったら、阿弥陀仏という。」 |