2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2552)

 放送大学の教科書として以前作られた大峯顕先生の本が数年前、改めて法蔵館から出版されました。「宗教の授業」(2005)は大学生向けの15回の授業内容であると聞いていますが、広い視野での記述で教えられる所が多い本です。 その中の一部に「民族宗教と世界宗教」という項目の内容があります。日本の神道と仏教の位置づけがよく理解できます。
 学識の豊富な先生の講義を聞く機会には恵まれませんでしたが、幸い「教科書」という形で講義に触れることのできることは嬉しいことです。 その中で民族宗教と世界宗教の違いを示してくれています。 世俗では法律的に“宗教法人”という名で種々の自称“宗教”が法律的な要件を満たせば“宗教”という名で、ひとまとめにされていますが、その内容は玉石混交だということが分かってきました。
 民族宗教は、原始民族の宗教と古代高度文明時代の諸民族が自分たちの国家社会をつくったとき、その精神的支柱として信奉した諸宗教ということができるそうです。 民族宗教は民族の政治的・国家的な生活の安寧という現世利益の立場をでないということです。 そのためにその宗教関係者の関心は、自分たち集団と自然界、外的世界との関係に関心が集中しています。 伊勢神宮は稲作の神様であると宮司さんが新聞で語っておられた。農村社会の豊かな生活は稲作と密接に関係します。 天候が順調で豊作になることが、豊かな生活、民族の繁栄に結びつくということです。 そこで天気をつかさどる“何か”。 それを神と呼び、天候(自然界)を人間に好ましいようにしてもらうように祈る、いわゆる宗教活動は自然発生的に起こり、それを当時の為政者の思惑と結びつき神社は展開していったのだろうと推測されます。
 そういう世界各地の民族宗教の中から思索の展開・発展・進化が起こり、宗教的天才といわれる個人、釈尊、イエス、マホメットらが誕生して民族宗教を超える世界宗教を展開させたということです。 「世界宗教」と呼ばれる宗教は、特定の民族の内部にしか通用しない宗教ではなく、民族の狭い枠を超えて、国を超えて、人類であればみな共有しうるような宗教に深まったということであります。
 民族宗教と世界宗教の差違について大峯先生は4つあげています。

民族宗教と世界宗教の相違点
第一.民族的な枠があるかないか。――民族宗教は一地域の民族、集団に関係する物で、他の地域、国、民族に適応しない。 世界宗教は人類という普遍的な立場に立っている。同時にひとりひとりの個人の救済である。普遍性と同時に個人性という性格もつ。
第二.一人の個人によって創設されたもの。開祖といわれる人がいるかいないか。――民族宗教は誰によってということではなく、何時とはなしに民族の集団的な生活の中から自然に発生した。
第三.教典と教義があるかどうか。―― 民族宗教は教典と教義をもってない。―― 個人としての人間が何によって救われるかという宗教的真理について語られた教典の有無。
第四.開祖の教えを信ずる人々が社会的共同体とは別に一つの教団をつくることがあるかどうか。――民族宗教の場合はその社会の構成員がそのまま信者集団であるから、社会から独立した教団というものは存在しない。 経典と信仰を中心にして集まった人々の教団が、民族共同体や国家社会の組織から独立することによって、世界宗教が成立したというわけです。

 もう一つ両者の比較から見えてくる相違は、民族宗教は民族とそれを取り巻く自然界、外的状況との関係に関心が集中しているということであります。初詣で宇佐神宮に参って願う(祈る)ことは、「無病息災、家内安全、商売繁盛、願い事成就」であると思われます。悟りや信心獲得を願うことは希でしょう。私の幸福、不幸を決めるのは私を取り巻く周囲の状況であるとほとんどの人が思っているからです。私の周囲の状況を、「どうか神様、私の外の状況を私の都合のよい方向に導いていって下さい」とお願いしているのです。
 余談ですは、“初詣”は昔からの行事かと思っていたら、今年(平成21年)のお正月のテレビのクイズ関連の放送で、“初詣”は明治以降の鉄道会社が乗客を増やすキャンペーンをしてから、増えていって、多くの人が初詣をするようになったと大学の研究者が証言していました。
 世界宗教は現世の幸福願望を究極のものとする生き方を否定し、現世を超えた次元にこの現世の生活の意味づける根底を見出そうとするものです。 仏教では「涅槃」「浄土」、キリスト教では「神の国」「天国」。 現世を超越して現世の生そのものを支える次元のことであります。「超える」というのは客観的にとか実証的にということではなく、目覚め(悟り、信心)の深さにおいて気づかれる世界を表現しているのです。民族宗教にも他界の考えはあるけれども、その他界は現世からの超越性をもたなかったのです。
 世界宗教は人間はたんに民族社会に生きるだけの存在としてではなく、人類という普遍的な世界の成員として考えていったのです。 それまでの人類が自分たちと自然界、外的宇宙との関係に関心が集中していたのに対して、人間は自己自身の内面にも大きな宇宙があることに目覚め、そういう内面的な精神的宇宙というものの中における自己の位置を意識するようになったのです。
 私の外の状況を問題にしていくことを外道といい、私の内面、心を問題にしていくことを内道、内観といいます。仏教が日本の文化に何を貢献したかというと「内観」という道だそうです。日本の民族宗教は残念ながら内観という方向への深まりを持ち得なかったそうです。
 世界宗教的な内観という方向の進化を持ち得なかった世界各地の民族宗教は形(建物、儀式など)は残っても科学技術の発展に伴って、内容的には滅びの方向に進んでいっているようです。
 無宗教と自称する人が大半を占める日本で、文科省に宗教法人から届け出ているいわゆる信者の数は平成18年キリスト教、1%、仏教、44%、神道、50%です。信者総数は2億1千万です。日本の人口より多いということは、宇佐市民の私は上記、第4の理由で、多分宇佐神宮が氏子として届け出た数の中に自動的に入っているのでしょう。
 世界宗教は祭政分離の立場に立って、しかも政治が宗教に従属するという形がとられてきました。先日のアメリカ大統領の就任式でオバマさんは聖書に手を置いて宣誓したことに象徴的に現れています。日本では、近世になってから、国家社会の生活と宗教との間の関係が壊れはじめ、現代では宗教は人間のいろいろな生活領域の中の一つにすぎないものとなっています。世界宗教の超越的原理が力を失ってきた一面が出ているわけです。しかし、無宗教を誇る人の宗教意識は原始宗教的な水準に戻ると見破られた宗教者がいました、実際そういう傾向が見られると思います。
 宗教なしで、死すべき存在であることに由来する根本不安を解決することはできるのでしょうか。 福祉国家も科学技術も決して現世の生活を最後まで支える宗教たりえないのです。 現代人の思考(理知分別)で世俗生活の幸福願望が従来の宗教の代わりになりうるとは思われません。
 死はこの現世のすべての生き甲斐と意味を奪う恐ろしい虚無への入り口であります。最後の単なる虚無としての死が待っている人生とは、要するに総体として無意味ということではないでしょうか。日本人の現世主義的な生き方は、その根底に一つの空洞をもったニヒリズム、意識されていないニヒリズムだという他はないのであると大峯先生は指摘されています。

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