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「医師が語る死の受容」(「大法輪」平成20年11月号、P108-113)の(2)(一部改変)

(前回の続き)
 死の受容
 仏教は「人間に生まれてよかった、生きてきて良かった」という人生を生きる道を教えるものです。言い換えれば「私は私でよかった」「私が私になりきる」「未練のない完全燃焼の人生」を生きることに導いてくれる教えといただいています。
 人間が死ねばどうなるのかというような問題は、肉体的には生命活動が終わり、火葬されれば肉体としてはなくなると医学の根拠の対象論理、科学的合理主義ではいうことでしょう。しかし、私の意識はどうなるのでしょう。もともと形のないモノですから、死んだらどうなるかは全く分からないというのが、現代の理知分別を拠り所とする人間の矜持(きょうじ)、真面目さではないでしょうか。死んでしまえばお終いというのはあまりのも俗物的です。人間が死んだらどうなるかというような魂の問題には、論理の言葉はとどかないのです。死ぬということは永遠のなぞですから。死んだらどうなるかということは、私たちにはわかりません。私たちは誰でもこの大きな無知の中にいるのだということが本当でしょう。それに気づくことが本当の智慧です。自分が無知であるということを知る智慧は、何かを知っているという状態じゃなく、無知を知るという一つの覚醒を意味すると教えて頂いています。哲学とはそういう無知の知に他なりません。科学の知と哲学の知とは次元が違うのです。
 ある作家が「生きることを考えるにあたって、『死ぬ』とはどういうことかを知っている必要がある」。しかし、『死ぬ』とはどういうことか。言うまでもなく、死は無であり、無は無いのだから死は存在しない。また別の哲学者が「死はこの世の出来事ではない。経験不可能なことである。超越的な問題である。だから我々は死を知ることは出来ない」と言われています。臨床現場では、肉体の死、死に様を医療者は多く看ています。しかし、意識の死そのものは不可知であって、本当は分からないのです。大阪大学名誉教授(宗教哲学)の大峯顕師は「今ここにいる人は私を含めて、まだ死んだことがないのですから、死とは何かは分かりません。患者さんの死に立ち会う事の多い医師や看護師でも、死そのものは見たことがありません。死に様、死体を見ているだけです。死そのものは見たことがありません。死体を見ているだけです。我々だって家族が死んだといっても、やはり死体を見ただけであって、死そのものは絶対見ることは出来ないのです。だから死について独断や偏見を言っちゃいけません。例えば、死んだ人は消えて無になるなんて、わかったようなことを言ってはいけません。あれは死体や身体上の変化を言っているだけであります。死者は、我々生者の目から見えなくなっただけのことであって、存在しなくなったなんてことは言えないと思います。人間にとって一番悪いことは、知らないくせに知ったかぶりすることです」と言われています。
 仏智に照らされ、自分の煩悩性を知らされ、信心・悟りの世界に出遇う者は、浄土を生きる場として、今の一瞬に永遠を生きる世界に導かれるのです。そうすると、苦しみとか不安・心配の一番根本は「我見」であり、今までの人生は迷いの生き方であったと翻される時、自分の小さな迷いの生を離れて、大きな目覚めの世界(無量寿、永遠)を与えられるのです。仏の智慧によって自分中心の我見が打ち砕かれる、そうすると不安・心配は何もなくなるのです。歳をとるのも病気するのも死んでいくのも、いつ死んでもかまわんというようになるのです。いつ死んでもかまわんというより、生きている限りはご恩に報いたい。ご恩に報いるために出来るだけ生きていたいと思うようになるのです。
 仏の智慧に育てられると、心も成長して、今、今日を大切に真剣に明るく生きるようになり、未練などなくなるのです。未練は、まだやり終えてない、まだ満足していない人の感覚だとお聞きしています。一瞬毎(ごと)を念仏して真剣に生き終えた人は、どんな楽しいことが終わっても、それが途中で終わっても、あっそう、時間切れですか、じゃあね、南無阿弥陀仏、という感じで、さばさばと人生をおわることができるそうです。この今にだけ集中して、今日、しっかり頑張って一日生きたら、済んだ事に未練も後悔もないし(持ち越し苦労をしない)、まだ来ない未来のことを心配(取り越し苦労)したり当てにしたりしないで、しっかり生きていられるのです。
 仏教の教えの深さ・広さ・大きさに圧倒される者は、仏教が分かったとは言えなくなるのです。確かに言える事は、仏智に照らされて知らされる私の愚かさ、小ささでしょう。その自覚において生きるも死ぬもお任せで、生死を超える、無碍の一道を歩む身にさせられるのです。
 法句経に、
「人もし生くること 百年ならんとも すべてのものの いかにおこり いかにほろぶるやを 知るなくば この生滅の理(ことわり)を知りて 1日生くるにも およばざるなり」
「人もし生くること 百年ならんとも 不死の道を 見ることなくば この不滅の道を見る人の 1日生くるにも およばざるなり」
「人もし生くること 百年ならんとも 無上の法を 見ることなくば 無上の法を 見る人の 1日生くるにも およばざるなり」
と教えています。
 「仏法(念仏)に出会って良かったね、念仏して生きていきましょう」ということを共有できる文化状況が求められているのです。
(終)

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