6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2553)
仏教は「生まれてきた意義」をどう考えるか
(3)宗教抜きの現代
@対象化(対象論理)、傍観者
対象化は見る自分と見られる対象物を切り離して考える、それは「傍観者的な思考」になる。「傍観者の思考」とはいつも外側の対象物だけを問題にする。自分は問われない、責められない。外的な自己を見るが自分の内面を見るということがない。いつも外側の状況を、あれが善いこれが悪いと批判していく傾向になってしまうのです(自分が除かれている)。
赤旗の投書欄に松山の71歳の方の文章が載っていた。この方は戦時中に結核で喀血して入院した。恋に破れ、結婚もあきらめ、障害者、非国民とさげすまされ、死のうと決心した。どの梁(はり)に縄をくくりつけて死のうかと思って天井を見ていたら煙が出ていた。それで急いで飛び起きて近所の人に「火事だ」と声をかけて、なんとか消火してもらいおさまった。再び安静の床で考えた。頭では死を決心したのに、身体は逃げだした。身体全体では「生きたい」ということだと思い直して、今日まで生きてきてよかった、という内容の記事が掲載されていた。
私たちは頭で考えること身体全体で感じていることを比べると、平素は「頭」優先の考え方でいきます。これが対象化する傍観者の考えです。「私」という内的な自己を見つめる、仏の光に照らされて私の現実を見るということをしない。私の内的自己を含めて身体全体を考えることが大切です。身体全体というのは三十数億年の生命の連鎖の中で「私」という人間がこの世に誕生させて頂いているということです。それはどういう意味があるのかということは科学的な思考だけでは説明できない。
A自の業識、迷いの主体
私がこの世に誕生した意味を、仏教の目覚めの視点では「自の業識を内因として父母の清血を外縁として生まれてきた」と善導大師は言われています。「自の業識」とは何かというと「迷いの主体」ということです。「迷いの主体」とは何か。仏の智慧に照らされて感得される私の自覚です。お釈迦様が目覚めの表現、「人生苦なり」に関係することです。この「苦」とは楽しい苦しいの「苦」ではなくて、思いどおりにならない、という意味です。惑・業・苦と「苦」の元凶は迷い(惑)であります、智慧がない、無明であるからだと教えています。「人生、苦なり」の人間に生まれたということは迷いの解決がついてないということです。
仏教が目指す世界は、歎異抄第七章では「念仏者は無碍の一道なり」という世界でしょう。「無碍の一道」というのは障りになるものは何もないということ。しかし私たちの現実は思いどおりにならない。「思いどおりにならない」と感じる原因は、外の種々の状況ではない、それらは縁であって,苦の原因は私の煩悩性にあると指摘するのです。お釈迦様は「生死勤苦のもとを抜く」といって悟り・信心・智慧という形で私たちに苦を超える道を教えてくださっています。『親が勝手に私を生んだ』と愚痴を言うように人間に生まれてきた意味に納得できなかったものが、仏法の教えに出会うことによって「自の業識を内因として父母の清血を外縁とし因縁和合して生まれてきた」とうところに「意味があるのですよ」と教えられていくのです。
今、私の所に受診に来られる83歳の元中学数学の教師の方との対話の中で教わることがある。糖尿病と高血圧とC型肝炎があって肝臓癌になることを心配されている。癌になったらおしまい、寝たきりになったらおしまいと不安を訴えられる。聞いてみると浄土真宗の門徒さんで「先生は平均寿命を超えていますよ、癌になる心配とか寝たきりになる心配とか、取り越し苦労しないで、もっと鷹揚に生きられませんか?仏教の勉強をしませんか?」とお勧めしたら、「まだ早い」と言われた。その後しばらくして「『南無阿弥陀仏』ということがわかるともっと鷹揚に生きられますよ」と言うと「訳のわからん南無阿弥陀仏だけは言いたくない」と言われた。そして私が「先生、浄土というのはどう思われますか?」と聞いたら「浄土なんてどこにありますか。世界地図探してもどこにもないじゃないですか。信じられませんよ」とこう言う。
現代人は形で表せないもの色で表せないもの数字で表せないもの実証できないものは頼りにならない。頼りになるもので、合理的に思考でできるものを積み重ねていって自分なりの「いい人生」を生きていこうとする。その数学の元教師も83年間の人生をそういう形で生きてこられた。奥さんが数年前癌で亡くなられて大きな家にひとりで住んでいる。子供さんたちも優秀で都会に出て行って帰ってこない。最近は「近くの同世代の人が死んでいってわびしくなる」と言われる。見えるものだけが確かだと言えば同じ世代の人が亡くなっていけば「寂しい、わびしい」とこういう言い方をする。この方の言動を見聞きすると、この患者さんは現代の宗教抜きで生きていく人の生き様の象徴のような気がするのです。
B念仏・智慧の世界
お念仏に深いご縁のあった関先生(当時進行した癌を病んでいて、病気の末期でした)と細川先生の往復書簡の中に、関先生が「肉体的には大変きついです。しかし憶念の世界を頂いて大変賑やかです」と書かれていた。見えるものだけが確かだとなると、寂しくなるということはあると思うけども、お念仏の教えを頂いたものは決して寂しくない世界を生きさせて頂くのだということを先輩達は生き様の中で私たちに教えてくれています。お念仏には「憶念、念持(持続する)、不忘」という功徳があると教えられています。藤村洞達という僧侶の道歌に「往きし人、皆この我に還りきて、南無阿弥陀仏と称えさせます」があります。亡くなって浄土に還って行った親しかった人たちが皆、この私に還って来て、南無阿弥陀仏という名号、仏様となって出てくれる。憶念の世界は決して寂しくないのだということを教えて頂くような気がします。「生まれてきてよかった」と「苦労の多い人生であったけども尊い得がたい人生を生きることが出来た」と言う者になって欲しいというのが、南無阿弥陀仏、本願の心といただいています。
智慧をいただいたことを信心というが、信ということに関してある師は「清浄な心である」「疑いなし」「願いを持つ」という条件が整った時に「信」といえるのだと言われています。1歳くらいの自我意識の発達してない子どもの母親に対して状況は、小賢しさがなく清浄で、疑いがないということにおいては「信」に似ているといえます。
C相対、対立、「二」
私たちが知性・理性・分別で思考は「二」という考え方です。この思考の基本の所には「疑い」があります。「私」を立てて、向こう側に対象物を立てる、その私が分別して対象物を見ていくのです。対象物はこの私にとって敵か味方か、利用できるか利用できないか、好ましいか好ましくないか、まず出会ったものは疑っていくということから始まっていきます。普段、人を信用するかどうかは、その人の全部が分かったら信用しますとなりますというふうに思考します。
仏教に対しても、仏教を全部分かったら信じます、理解出来たら念仏しますという人が非常に多い。仏教が全部分かるということが私たちに出来ることかといいますと、出来ない、不可能です。何故? 物事を対象化して見るという分別の基本は「疑い」であるからこれを除くということは不可能に近い。仏教という圧倒的に大きなものを私の理解できる小さなレベルのものだという前提の思考からスタートする限りは、仏教を誤解してしまいます。私と「阿弥陀仏」との関係は、仏様の方が圧倒的に大きいという関係ですから私が仏様をわかるということは不可能なことなのです。では仏教の「信」ということはどういうことなのか、ということになります。
仏の智慧(無量光)に照らし出された「私の姿」ははっきりしてくるのです。長年の聞法というお育てによってはっきりしてくるのです。仏、南無阿弥陀仏がわからなくてもよい。仏様から照らされた「私の姿」がはっきりしてくればそれで充分なのです。師は「南無阿弥陀仏とは、『汝小さな殻を出て大きな世界を生きよ』ということなのですよ」とよく説いてくれました。南無阿弥陀仏(仏様の智慧の世界)は、人間の有り方を皆見透かされている。見透かしているから無量光という。太陽だと影ができますが仏様の光は影なく照らす。仏法の聞法や学びをしていくうちにそう(人間の分別を超えている)としか思えないようになるのです。そうすると仏様は私のことを知り通していると頷ける(感得するという表現が適切でしょう)。
(続く) |