7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2553)

仏教は「生まれてきた意義」をどう考えるか(3、前回からの続き)

(5)仏の智慧、他心知通

 それを本願に説かれていますが他心知通、他人の心を知り通すという功徳を仏様は持っている。とすると私を知り抜いている、そうすると私と本当に通じ合うという関係が可能なのは仏様との関係においてであるということです。仏法がなかなか分からないという人は、仏の話を聞いていて「仏様というのはそういうものか」という風にあっちを向いて、自分と切り離して考えているのです。「仏様はそう言っているのか」というのと同時に、「私にどう関係するのか」と問うことが大事なのです。私にどう関係するのかと問うてくるとどうなるかというと、「私と私の家族や周囲の人との関係」、同じ家に住んでいるので、世間的には通じ会えていると思うが、仏様との関係とを考えてみると通じ合えてないことを知らされる(愕き!)。かなりの部分は共有されると思うが、本当に通じ会えているかというと通じ会えてない。
<  しかし、通じ会えてなくてよかったのだとなってくるでしょう。何故かというと、例えば私のパートナーが私の心をいつも見透かしていると、二人の間にいつも摩擦が生じるかもしれない。ということは通じ会えないからなんとか仲がいいことを演じられる。通じ会えないけども、お念仏という世界を共有することが出来るようになると、そこに煩悩具足の凡夫という共通の自覚の場を持てる、そこで御同行・御同朋という通じ会う関係を再構築できるでしょう。
 原理的に通じ合えないということを知らされてみて、知らされる私の有様というのは徹底した「孤独」です。孤独の感覚は「地獄」を生きているということだそうです。そうすると私たちは「人間の格好をして生まれながら本当に人間になれているであろうか?」ということを仏様の光を通しながら問われると同時に人間になれてないことを知らされてきます。そうすると、智慧がないため、他との間柄を知ることもなくい「迷いの主体」を生きてきたということがわかるでしょう。そして「人生苦なり」ということが段々身に染みて感得されてくるのです。そして迷いの解決がつかなかったことが人(ひと)に生まれてきた意味であると目覚めていくのです。(迷いの解決が今までについて、迷いの六道を解脱していたら、菩薩・仏となり、この迷いの世俗の世界に生まれてこなかっただろうということです)

4.人生の見直し

 「自の業識」という「迷いの主体」は何とか人に生まれて仏法に出遇いたい(智慧をいただいて迷いを超えたい、束縛からの解放されたい)という願いを持っているのです。では、仏法に出遇わなかったら。これは弘法大師の道歌に「生まれ 生まれ 生まれ 生まれて生の始めに暗く、死に 死に 死に 死して死の終りに冥し」があります。弘法大師も人に生まれて、仏法に出遇えた喜びを歌っているのでしょう。「生まれ 生まれ 生まれ 生まれて生の始めに暗く」ということはずっと迷い、「自の業識」が解決のつかないまま迷いを経巡って過ごしてきた。
 そしてこの度人に生まれさせて頂いて、仏法に出遇わなかったらまた冥い世界を経巡っていくとしか思えない。理知分別は「あなたの何代前の人が迷っているのですか、迷っていたという証拠はどこにあるのですか、等々」と小賢しく考える。しかし仏様の光に照らされた自分の迷いの深さに自覚できたところから見える過去は、ずっと迷いが解決出来なかったとしか思えないではないかということです。自分と切り離して対象化して考えると、そういうことはありえない。だけど仏様の光に照らされた自分の愚かさ(無明性)に気付いたところからはそうとしか思えない。「今・ここ」での目覚めから見えてくる過去は、そうとしか思えないと気付かされていくのです。その私が人に生まれさせて頂いて仏法に出遇おうとしているのだ。もし人に生まれた甲斐が解らず仏法に出遇わないままに人生を無為に過ごすとするならば、また「死に 死に 死に 死して死の終りに冥く」、暗い世界から冥(くら)い世界を経巡るとしか思えないということです。それがたまたまここで「両親を縁として」、今の時代に人として生まれさせて頂いた。仏の智慧の世界に触れて気付かされることは、人に生まれてきたということは迷いを超えるために生まれてきたとしか思えないとなるのです。迷いを超えるチャンスは、人に生まれて、仏法に出遇うということではないか。お念仏(本願・名号・南無阿弥陀仏)に出遇うことなしに迷いを越え、暗い世界か出ることはないのだということでしょう。
 この「自の業識」というのは仏の智慧のはたらきで次に「信心の業識」に転じます。「識」についてですが、私たちの意識というのはどこからきて、どこに行くのか解らないのです。科学的合理主義で言うならば頭の中の分子レベルの活動で意識は出ているのだろうと仮定はしているけれど証明した人は誰もいません。死んだら意識はどうなるかというともまだ本当は解っていないのです。
 大峯顯先生が「今ここにいる人は私を含めてまだ死んだことがないのですから、死とは何かわかりません。患者さんの死に立ち会うことの多い医師や看護師でも死そのものは見たことがありません。死に様死体を見ているだけです。我々だって家族が死んだといってもやはり死体を見ただけであって、死そのものは絶対みることが出来ないのです。だから死について独断や偏見を言ってはいけません。例えば死んだ人は消えて無になるなんてわかったようなことを言ってはいけません。あれは死体や身体上の変化を言っているだけでありまして、死体は我々生者の眼から見えなくなっただけのことであって存在しなくなったということは言えないと思います。人間にとって一番悪いことは知らないくせに知ったかぶりをすることです」と仰っています。
 だから、わからないと言うべきなのだと。年末に喪中で新年の挨拶は欠礼しますと葉書が来る。その中で言っていることは「永眠しました」「他界しました」と書いてあることが多い。真宗の教えを頂いた人は亡くなった人は「浄土に還った」といいます。「永眠」とか「他界」ということは行方が分からない「行方不明」だということです。大峯顯先生の話しでは「今までは東京に行くとか、福岡に行くとかちゃんと行き先言って行ったのに今回は行き先を言わないで行った、行方不明だ。長年連れ添ったものがこれでよいのでしょうか」、「ちゃんと浄土に行ったということがはっきりすると、浄土から南無阿弥陀仏と便りを出してくれるのですよ」と。これは仏様の目覚めの世界から見えたら仏様の世界に還って行った親しかった人、よき師、よき友、諸仏方と言うことが出来ます。
「私たちは人の顔をしているけども本当に人間になれているのでしょうか?」
「地獄・餓鬼・畜生を生きている私ではないでしょうか?」
と仏法のお育てを頂いて、改めて問われると、アッと驚くのです。
 人間になれないまま人生を80年90年生きたとしても生きても生きたことにならないのではないか?
 そこに人間に生まれてよかった、生きてきてよかった、死んでいくこともなんの心配もないナマンダブツとおまかせしとりますという、安心の世界は、仏法との出遇いがなかったら生まれないでしょう。
 金子大栄先生は、「人生やり直しは出来ないが、見直しは出来る」と仰っています。「お念仏の心を頂いて見直してみると、あの恥ずかしかったことも、あの失敗して悔しかったことも、今日の私が、仏法に出遇い、そして人間になっていくという歩みにはなくてはならないものだったと、人生には無駄なものはないと受け取れてくるのですよ」。
 ですから私が「いる」のではない私に「なった」。私が行為をするのではなく、行為が私を作っのです。過去何十年間の人生が今日の「私」を作った。今、ここで仏法に、お念仏に出遇っていくという時を頂いているのですということになってきた時に、私たちは「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった」という風に気付かされて行く歩みに導かれていくのではないかと思わされる。信心の世界に出されると「三悪道の門閉づ」、三悪道にもどる門が閉じると書いてある。お念仏によってそう導かれていくのです。
(続く)

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