8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2553)
仏教は「生まれてきた意義」をどう考えるか(4、前回からの続き)
(5)仏法に出遇いたい
@地獄・餓鬼・畜生
仏法に出遇わないとどうなるのか。惑・業・苦と迷いと苦の繰り返しになるでしょう。しかし、皆、仏法の世界に出遇いたいと叫びをあげているのです。例えば、石垣りんという方の「くらし」という詩は
「食わずには生きてゆけない メシを 野菜を 肉を 空気を 光を
水を 親を きょうだいを 師を 金もこころも 食わずには生きてこれなかった
ふくれた腹をかかえ 口をぬぐえば 台所にちらばっている にんじんのしっぽ 鳥の骨
父のはらわた 四十の日暮れ 私の目にはじめてあふれる獣の涙」。
詩人、石垣りんは数年前亡くなりました。四十歳の頃こういった三悪道の自分に出遇ったのでしょう。
関本りえ、という方の詩は
「私は高速道路が好きです 私はスモッグで汚れた風が好きです
私は魚が死んでいる海が好きです 私はゴミでいっぱいの町が好きです
殺人、詐欺、自動車事故が好き そして何よりも好きなのは
多数の人が涙を流す血を流す戦争が大好きです
飢えと寒さで戦って死んでいく姿を見ると 背中がゾクゾクするほど楽しくなります
毎日毎日大人が子供が生まれたばかりの赤ん坊が
次から次へと死んでいくのかと思うと心がゆったりします
歴史を歴史と感じ 過去を過去と思う
無感情な時の流れに自分自身にたまらなく喜びを感じます こんな私を助けてください
誰か助けてください たったひとつぶでもいいのです こんな私に涙というものを与えてください
たった一瞬でもいいのです こんな私に尊さというものを与えてください
私の名前は人間といいます」。
こういう詩が、人間に生まれて本当に「人間になれているのか」ということを問いかけてきます。
A心の奥底からの叫び
私たちは何を願い、何を求めているのかということが解らないという一面があります。産業医科大学の非常勤講師で真言宗の僧侶であった古川泰龍師は著書の中で、多くの人たちが病気をしたとか高齢になってくると「死にたくない」と言うと、死なないわけにはいかないので要求を下げて「長生きしたい」という、しかし、この「死にたくない」「長生きしたい」というのは表面的なものだけではなく、心の奥底からの訴えなのだと、どういう訴えか、というと「私は生まれてから死ぬという有限のいのちを生きてきて何か出遇うべきものに出遇わないまま、この人生を終わろうとしている。何か死にきれない。」、「死にたくない・長生きしたい」というのは死なない命にめぐり合いたい、死のない命、仏様のいのち・無量寿の世界、永遠の世界に出遇いたい、という心の底の思い、宗教的目覚めを求めている叫びである、と書いています。
無量寿の世界(南無阿弥陀仏)にめぐり合いたいという思いが、「死にたくない・長生きしたい」という表白になっているのです。私たちは心の奥底で何かもやもやしたものがあったとしても、一時的な気の迷いと思うが、それは背後に宿っているものが露出してくる現象と受け取ることが出来るといいます。
B本願・南無阿弥陀仏との出遇い
歎異抄の第一章の趣旨は、本願の心をいただいて、念仏申さんと思いたつ心の起こるとき、私が有限のいのちを生きていたものが、この一瞬(アトム、注;1)に永遠の世界に出会っていく、別の表現では無量寿の世界が私の上に露出してくるのだということでしょう。
いままでは私の思い、分別で生きていこうと思っていた。しかし、仏の智慧によって分別の無明性(迷い、小さい、能力不足)を知らされ、分別の延長線上では迷いを繰り返すしかない、と徹底して知らされた、その私のために、仏様の方が智慧を届けたい、いのちを届けたいという本願、仏の心に、縁熟して触れていくのです。念仏に出遇うことが出来るのは私に先立って、一歩前を歩く先達が、「南無阿弥陀仏に出遇えてよかったんですよ」と南無阿弥陀仏に出遇った溢れ出る喜びを讃嘆される、それが諸仏称揚。諸仏が褒(ほ)め称(たた)えて念仏されるのに遇って、その心に触れて私もまた「お念仏して生きていこう」と思って念仏する一瞬に、その一瞬に永遠(無量寿)が共存する。
南無阿弥陀仏、無量寿に出遇う者は、本当に出遇うべきものに出遇ってよかったと言って、足るを知る世界に出されるのです。仏教の言葉に「足るを知らなければ、いかに富んでも貧しい」があります。足るを知る世界に出遇えたものは、本当に出遇うべきものに出遇ってよかったと歓喜して、この「出遇い」の為に私は人間に生まれてきたとしか思えないという思いに出させられるでしょう。
暗い世界から、冥い世界をへめぐるしかない者が、無量光の世界、本当に明るい世界に出遇えていくのです。その明るい世界に出遇う者は生きるも死ぬも仏様におまかせして、生かされている事の報恩の仕事を精一杯させていただきます、と転回をとげていくでしょう。それがお念仏を頂くということだと思います。
C不足不満から「足るを知る世界」へ
何か虚(空)しい、この事が上手くいったら、この思いがかなったら、これが入手できたら、私にやりがいのある仕事があったら、もうちょっと頑張れるんだと思う・・・という私たちのあり方は「I want〜」とこういう表現になります。「want」は動詞だが、名詞として辞書で引いてみると@必要A不足B不満C欠乏D困窮・・・・・・。仏法の世界(結果として、足るを知る世界)に出遇わないまま世俗の世界で生きていく限り、いつのまにか不足・不満・欠乏・困窮の状態に居る。足るを知る世界と真反対の世界に居るということでしょう。足るを知らないということはいくら物質的に豊かであってもそれは貧しいのです。
なにかしら“虚しい”と感じるのは、そういうものを超えようとして、心の奥底から露出してきている仏の心に共鳴するものかもしれません。それを誤魔化していくということになりがちだけれども、そのことを尋ねていくと必ず無量寿・無量光の世界(南無阿弥陀仏)にめぐり合いたいのだという宗教的目覚めを求めている叫びであると受け止める展開があるのでしょう。
私たちが本当に「満足」という世界に継続して出遇うのは、天親菩薩の作られた「願生偈」で浄土の徳を讃嘆して「衆生の願楽するところ、一切能く満足す」と詠われています。児玉暁洋先生は浄土という仏様の世界を、本物を欲する意欲に生きる時、本当の満足があると表現されています。この「本物」というのは、浄土(仏様の世界)を欲する意欲に生きるときにいう意味です。細川先生は浄土を生きる心を、「人生を結論とせず、人生に結論を求めず、人生を往生浄土の縁として生きる、これを浄土真宗という」と仰っています。これは人生が上手くいったとか上手くいかなかったとか人生を結論とすることではなく、この人生は往生浄土の縁として生きる。
「往生浄土」というのは、浄土という目的地を目指す生き方と同時に、「今」が浄土、仏の働きを感得する場でもあるのです。浄土では一瞬と永遠が矛盾しないように、目的であると同時に浄土の世界を生きていくという二重国籍(浄土と穢土)として生きていけるのです。
(続く)
注1、アトム;、この一瞬とは、時間を分けられことを「トム」という、これ以上短く分けられないのを「アトム」と表現。時間の最少単位 |