9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2553)

仏教は「生まれてきた意義」をどう考えるか(5、前回からの続き)

(5)仏法に出遇いたい。(C不足不満から「足るを知る世界」へ)……の途中から
 例えて言えば、私は卵のようなもので、卵の殻を破ってひよこになって、親鳥に向かって生きていく。親鳥(仏)の世界を目指しながら同時に、親鳥(仏)のはたらきの中で生きていく。往生浄土の歩み。これが正に、本物を欲する意欲に生きるところに本当の満足がある。常に「今・永遠」という世界(足るを知る世界に導かれる世界)に出遇えている者には、死というものに関しては「おまかせ」、私は今、生かされていることを精一杯生きていくに尽きる、となるのです。
 それがなかなか「おまかせ」出来ないのはどうしてか?
 それは、「私の方が仏様より偉い(仏<私)」、「私が判断できる」と思っているからです。私が全部解ったら仏教を信じます、全部解ったらお念仏します、といった対象化の中で、「疑い」を基本に生きているから仏法が分かるはずはないのです。思考方法自体に「疑い」がくっついているのです。
 仏法を勉強して段々仏法の方(智慧)が私の能力より少し大きいかなぁ「仏様の方が私よりちょっと偉い(仏≧私)」とわかってきたら、
 「じゃあ先生、お念仏は無我の境地で言わなきゃなりませんか」「何回も唱えなければなりませんか」「お念仏はトイレでは言っては失礼になるんでしょうね」とかいろいろ言うようになりますが、これはまだお念仏をはからって、道具みたいに扱う立場です。それでは素直にお念仏が出ないでしょう。
 無量というが如く、悟り、目覚めの内容は我われの分別を次元が違うみたいに超えているのです。

(6)大きなものと出遇う、(仏>>>……>>私)
@大きなものは分けるという思考では全体を分かるということはむつかしい。
 この圧倒的に大きな世界に出遇うとどうなるかと言うと、「我が名を称えよ、念仏するものを浄土に迎えとるぞ」との法蔵菩薩の言葉に、「はい。南無阿弥陀仏」と素直に言えるようになるでしょう。
 「信」ということの条件は、まずその「心が清浄」である、そして「疑いが無い」ということです。私たちの思考は皆「疑い」から始まっています。この「疑い」は対象化する思考、私と向こう側のモノを対立させる思考である限り取れないのです。
Aどうしたら「疑い」が取れるか?
 私の思いを翻して、仏の教えの如く、一体化、この仏法の智慧の世界の視点を頂いたときにどうなるのかと言うと、疑いはなくなる。全てのものは私に何かを教えようとしているのだと受け止められてくる。「私が圧倒的に大きな仏教が分かった」というのは無理なのです。私に出来ることは仏様から照らされて「私の愚かさ(無明性)」が見えた、私の煩悩性がはっきりした、これは「疑い無し」です。そしてこれは「仏様の智慧の目からみた私の姿」であるから清浄な心で見えた事実です。
 私が心を綺麗(清浄な心)にして仏教を解ろうとしていたのがそうじゃなかった。仏様の教え(心)を尋ねて、仏様の光に照らし出された私の愚かさに気付く歩みの中に、いつしか仏様の智慧の世界と疑い無しという事実が結果として実現出来ていたということです。それは私の思いを翻してお念仏して生きていこう。教えの如くに生きていこう。対象化から一体化へと智慧の世界を生きていこうと、「念仏申さんと思い立つこころの起こったと時」にもう「疑い」はないというよりは超えているということです。
 私が「信」「信心」を造りあげて「信じます」とは言わない。「信心を頂いた」と言うしかない。それは仏様の智慧の眼を頂いた訳ですから、仏様の智慧の眼で見た私の姿は間違いなく「愚か」。地獄・餓鬼・畜生を生きている私ということです。
B照らし破られる、自覚の深まり
 こういう自覚の深まり(無量光に照らし破られて)の中から見えてくる「私の人間に生まれたということの意味」は「自の業識を内因として、父母の清血を外縁として……」との善導の言葉の如く、私が迷っている(惑業苦の連鎖)ということがずっとあり、それを因(迷いの主体)として両親を縁として生まれさせて頂いた。そして、仏法に出遇うことによって信心の世界「信心の業識」に転ずるという「場」を今、この世で頂いて、仏様の智慧の世界を生きさせて頂くということになってきたときに、迷いを超えるのです。何故か、というと浄土の世界は「必至滅度」の願で必ず人間の迷いを越えて仏様の世界に生まれさせて頂くという場です。浄土は必至滅度(仏に成る)が約束された「場」ということです。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道を越えて菩薩、仏の世界を生きる存在たらしめられる「場」を頂くということです。
 何時か? 生身が尽きたときに浄土の世界が完成する。生きている間は、心は浄土に遊ぶけれども生身がある限りは娑婆の世界(穢土)を生きていかざるをえない。そしてこの生身が尽きた時に、仏様が「念仏するものを浄土に迎え取るぞ」と言っているお心をナマンダブツと受け取っていくものにとっては浄土に生まれるとしか思えないのです。仏法は人から人間へ、そしてついに仏様になるという大きなドラマ、物語の中を「私がかたじけなくも人間として生まれさせて頂く」ということです。そういう世界に出遇わないとこの人生を恨む、愚痴の人生になるかもしれません。
C愚痴の生き方
 一昨年(2007)の日本経済新聞の文化往来に、「宗左近氏を偲ぶ、戦争体験の重さを伝える」という記事がありました。宗左近という人が八十七歳で亡くなった。この方は戦争中に高校生だった。福島の方に疎開したのだけども、お母さんが物々交換の為の着物を東京に取りに行くというので、ついて来た、ところが空襲に遭った。そしてお母さんと一緒に逃げ惑っていたのだが、お母さんが「あなただけ逃げなさい」と言って手を放した。手を放して、宗さんは生き残ったけれどもお母さんは亡くなった。
 それで自責の念があったのでしょう。敗戦後、二十二年後に「炎える母」という詩を残している。その中に「いない 母がいない 走っている 走っていた 走っている母がいない」とこういう一節を書いて、自分を責めるだけでなく、責めるという立場に安住さえ許さない厳しい戦後の生き方が生まれたという詩人だった、と書かれています。この方は最期に白血病みたいな病気になって、ホスピスに入院して亡くなる前に奥さんにこう言った。「神様のバカヤロー。プラネット(宇宙)に地球なんか生みやがって。だから俺は生まれてこなきゃならなかったんだ。迷惑だ。」と呟いた、と記されていました。
D私の選び、一歩踏み出す勇気
 そこに人間に生まれてよかった、生きてきてよかった、死んでいくこともおまかせします、という世界とは対照的な世界。いや、それは、我われが「正にお念仏の世界を生きていくか」、「お念仏の世界を捨てていくか」が問われているのです。歎異抄の第二章に「念仏をとりて信じたてまつらんともまた捨てんともめんめんのおんはからいなり」。私たちが自分の分別だけを頼りにして生きていけるのだと生きていくのも、本当に仏様の教えを頂いて生きていくのも、めんめんのおんはからいなりと言って、私たちの選択にまかせられているのです。誰でもどこでもいつでもという、無条件の救いの実現出来る世界、念仏の世界、それは普遍性があるのですが、受け取る私の分別がかたくなに拒否すると……救いは実現出来ないのは私の方に非があるのです。
(続く)

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