10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2553)

仏教は「生まれてきた意義」をどう考えるか(6、前回からの続き)

(6)大きなものと出遇う、のD私の選び、一歩踏み出す勇気、の途中から
 言葉で表すこともできない、色で表すこともできない、数字で表すこともできない、時間的・空間的に圧倒的大きい世界を「如」という。その「如」なる世界から私たちに来た。「如来」として来た。南無阿弥陀仏という名前となって来られた。仏様の世界から私たちに見える形で表れた姿を「如来」という。これはキリスト教の言葉で言うなら「はじめに言葉ありき、言葉は神とともにあり、言葉は神であった」というヨハネの福音書の中の一節を細川先生は「はじめに南無阿弥陀仏ありき」、大きな「如」なる世界から私たちの前に現れる姿として「はじめに南無阿弥陀仏という言葉となって現れてくれたのだ」この南無阿弥陀仏は智慧といのちを届けたいという願いそのものなのだ。いや、南無阿弥陀仏こそ仏様そのものなのだと、こうやって南無阿弥陀仏の心を伝えようとした言葉として受け取る事ができる。
 キリスト教の言葉であっても、禅宗の言葉であっても、イスラム教の言葉であっても私たちが真実というものに出遇う、受け取りが出来るはたらきになるならば、それは私にとって「教え」となります。その言葉が真実を私を教えるものになるのです。細川先生はよく「お念仏の心がわかれば本当のクリスチャンはクリスチャンになるでしょう。禅宗の人は本当の禅者になっていくでしょう」と仰っていました。それくらい南無阿弥陀仏の心に触れるものは大きな世界に出されていくというか、出されたものは一宗一派に捉われずに、本当に普遍性のある世界を生きていくという世界を実現していくと受け取っています。

(7)人間に生まれてきた意義
@「分かる」から「感じる」へ
 私たちが「人間に生まれてきた意義」を考えるときに、金子大栄先生か曽我量深先生が「一生かけても後悔のない言葉に出遇うというのが仏教なのだ。それは南無阿弥陀仏なのですよ」とこう言われているそうです。この南無阿弥陀仏は「根源語」です。単なる言葉ではないのです。
 仏様の心に触れるということ一朝一夕にはなかなか分りません。頭で一回聞いたぐらいでは頭をさっと通り過ぎて行きます。何度も聞き込んでいくうちに、そして何か自分がいろんな生活の現場でニッチもサッチも行かない時に出合って、「あ、このことだったのか」というような頷きみたいな形で、感得できるというか、知らされる一面があるかなと思うことです。
 頭でわかっていたけれども、それは頭だけのことではなく、何かのご縁で身体全体で「あ、このことだったのか」といただけるみたいなことになるのでしょう。藤原正遠師は「いずれにも 行くべき道の たえたれば 口わりたもう 南無阿弥陀仏」という詩を作られています。「いずれにも行くべき道のたえた」というのはいろいろ試みたが、思うようにならない、救われる道が絶えた、救われようがない、という極みにおいて、かたじけなくも南無阿弥陀仏が口をわって出てくれた、という事実を詠われています。そこに、お念仏との出遇いに「なるほど、そういうことだったのか」という頷きがあったのでしょう。

A餓鬼根性
 お念仏が出ないとするとどういうことなのかというと、赤宗先生が「飯塚の会通信」で書いておられました。ある若者が「僕は今まで仏法を聞いてきましたが、今日はじめて自分は仏法から逃げたいと思っているのだと分かりました」と暗い顔で感想を言いました。それで私が「あなたは今、仏法から逃げようとする自分を見たと言いましたが、誰が見たのですか。あなたが見たのですか?それとも仏様が見たのですか?」と聞いたら、若者が「私が気付いたのです」と言いました。自分で自分の罪悪性を一生懸命見つけようとすることがありますが、それは真の認識、見るということではない。だから暗い。自我が見たら暗い。浄土真宗も間違えると本当に不健康です。何が本当の自己を見るのか。先師のお言葉をいただきますと「如来来たってわれとなって見る」のです。信心は私の中に生まれた心ですが、仏の領域のものである。そこに「如来来たって我となって見る」ということが成り立つ。本当に「見る」ということは「そうでしたか!」とスカッとしているのです。これが信心。真の自覚。そこに、真理に背き、仏様に背を向けて、私が私を生きるんだ、といって反逆している恩知らずの我を見、同時にその私を照らし出した大いなる世界を仰ぐ、懺悔と感謝が信心です。
 仏法は自分が気付いたように思うが、それは餓鬼根性である。教えてもらっても私が分かったのだと私有化する。それくらい私たちの餓鬼根性というのはしつっこい。小学校・中学校で教えてもらっても、自分が勉強して覚えたのだとなる。先生の教えがあればこそ色んなことを学べた。それが仏様に照らされてわかったら、「スカっとする」ということです。そこでは「参った!」となる。「参った!」とならんのは自分がまだ偉い。自分が偉いものだからなかなか「参った」と言わずに、仏様から教えてもらったことも、私が勉強してわかった、私が気付いたと私有化してしまう。これは「暗い」。それが「参った」となったら「明るい」と、こう言われていました。

B被害者意識、迷いの主体
 人間に生まれたということを最初は「被害者意識」で受け取りやすい。いい条件(能力、容姿、環境、時代性、地域性、社会性など)が整ったら私は自分の力を十分に発揮出来るに、周りの条件が悪いとこうなる。
 しかし、それはあなたが迷っている。ガンジス河の砂の数ほどの因や縁があなたを支え、あなたを生かしている。それが本当のあるがままの姿、事実ですよ。そういうことへの「気付き」を促してくれるものが、仏教の智慧の世界だと、やっと最近、私が知らされるようになってきました。そういう仏法の世界になかなか気付かないし、教えてもらっても「本当かな?」と疑うのです。
 いくら親しい人でも「あなたを信じていますよ」と言われたら、それは疑っているということの表現になっています。「信じています」と言わなくていい関係が信じていますということです。そういうふうに「疑いの主体(私)」とは「迷いの主体」ということです。煩悩によって主体の内面が汚れている、迷っているのです。
 内面の迷い、自我意識は「我」という殻(から)を作って見えないようにしている。この殻とは自我の殻、我痴(仏教なんかなくても生きていける、と知が病に入っている)・我見(私の考えは間違いない)・我慢(廻りと比べて私が勝った負けたと振り回される)・我愛(我が身が可愛い)とこういう殻を作って外的な自己は見ることはするが、内面を見ることは出来ない。私の思考の方法、「対象化」は私が外側を見るのに熱心で、自分が問われたり、責められたりすることを頑なに避けている。

C目覚めの深さから感じるもの
 「業」とは歴史。生命、30数億年の歴史で、今ここに命がある存在は生命連鎖の歴史が今まで途絶えなかったということです。認識や意識は出来ないが、「識」がずうっと続いてきたとしか思えないということです。「今」「ここ」で私が迷っている(「人生苦なり、<釈尊の目覚め>)から。四苦の解決がついてない、その迷いの深さから考えたら、今の迷いは今までの歴史で解決つかなかったと言えることではないか。そうすると「自の業識を内因とし」というのは頷ける。そしてたまたま両親を縁として人間として生まれるチャンスを頂いたというのが、私たちが「人間として生まれたという意義」と受け取れるのです。
 そして、人間に生まれて、もし仏法に出遇わないで人生を終わると、人生を呪うというか、愚痴を言うというか、生きても生きたことにならないような人生を生きていかざるをえないとしか思えないということです。
(続く)

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