11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2553)

仏教は「生まれてきた意義」をどう考えるか(7、前回からの続き)最終回

(7)人間に生まれてきた意義
C目覚めの深さから感じるもの…… の途中から
 もし仏法の世界に出遇えたなら、浄土の世界を生きる(往生浄土の歩み)という世界に生かされる時には、この世が最後の迷いの世界なのだ、充分に迷いなさい。命終わる時には必ず、「摂取不捨」往生浄土が完成して、必ず「必至滅度」、仏様の世界に生まれさせて頂くのです。それは迷いをもう繰り返さないという仏様の世界です。

D照育、照破
 それはどうして頷けるか、というと仏様の大きさが頷けてくるからです。長年の聞法を通さないと一朝一夕には頷けないでしょうが。はじめは私の分別で仏教を分かろう、分かろうとすることから始めるしかないのです。その歩み(聞法、法話を聞く、聴聞ともいう)を続けると、自分の偏見や思い込みや考え違いを照らし出される展開に導かれるのです。仏教の知識を増やすと思っていたのが、いつの間にか、自分の在り方を照らされ、知らされるというはたらきを受ける事になっていきます。そうしたら、なんのことはない、分かろう、仏に近づこうとしていた私が、逆に、仏さんから照らされる、自分の「愚かさ」がはっきりすることが仏教の全てなのだと展開していくことになるのです。仏様から照らされて「いや、まいりました」と私の「思い」を翻(ひるがえ)して、仏の教えの如く生きていこうという一歩を踏み出す勇気、勇み以外のものではないということでしょう。

E生きていることの「有ること難し」
 それはいつか?  ………  「今、ここ」なのです。
 仏教の「縁起の法」では私たちが生きているということは一刹那ごと生滅を繰り返していることで、死と生きているということは裏表です。死なないということだと生きていることは味気ないものになるでしょう。生きているという事は、死の裏表だというときに初めて生きていることが輝くのです。そして生きていることの貴重さが出て来るのです。
 分別の我われはどう考えているかというと、老・病・死を徹底的になくしたら、生は輝くと思っていたのでした。しかし、老・病・死をなくしたら、「生」は色あせてくる。「死」と裏表にあるということにおいて「生」が輝いてくるというのが本当の姿なのです。それは、死刑囚と無期懲役の人の生き様を通して知らされます(加賀乙彦氏の講演録より)。
 死刑囚は死刑執行をその日の朝(7時から7時30分の間)、知らされるそうです。死刑囚の人たちは日頃、いつも明日朝死刑が執行されるかもしれないという日を毎日過ごしているので、残された時間を凝縮して使おうと思って、躁鬱で言えばものすごく「躁状態」になっているようです。
 一方無期懲役の人たちは、死ぬまで大丈夫。刑務所の中で食べる事など(衣食住・保健)は保障されている、しかし単調な作業・仕事はあるという。医療保険も介護保険も完備されているような状態です。死ぬまで大丈夫だとなると、生きることが輝かない。結果として刑務所ボケといって、認知症のような状態に多くの人がなっていくという。それは何故か。死ぬまで大丈夫だといって死に「裏打ち」されてないような受け取りの日々だからでしょうと言われています。それらのことなどからも思われることは、死に「裏打ち」されて生きている、というその際(きわ)どい極みにおいて、生きていることが輝くことを教えられます。

F死をどう受け取るか
 私たちは死をどう受け取るか、不安や恐れるだけじゃなくて、仏教はどう超えていくことを教えてくれているのだろうか。養老猛司先生は雑誌の掲載された対談の中で「昨日の夜、昨日の私は死んでいるのです。今日の朝、今日の私が誕生しているのです。今日の夜、今日の私は死んでいくのです。今日という日は、私も皆さんも初体験の日なのです。そして明日の朝、新しい私が誕生するのです」と発言されていました。教えられるところがあります。
 また仏教の教えに「私があるのではない。私になるのです。私が行為をするのではない。行為が私を作るのです。」という言葉があります。縁起の法を表現しています。昨日までの行為が今日の私を作った。そして、因や縁が和合して為した私の行為が次なる一瞬の私を作っていくのです。その積み重ねで、今日一日の行為が今日の夜死んでいく。そして明日の私になるということです。
 細川先生は「今日の朝眼が覚めたとき、今日命を頂いた「南無阿弥陀仏」で今日一日スタートさせて頂くのです、今日夜休む時に「今日、一日、精一杯生きさせて頂きました、南無阿弥陀仏と休んでいくのです」と仰っていました。養老先生流に言えばそれで死んでいくということです。 ということは、私たちは自分の年齢に応じて「死ぬ練習」を毎日してきたとも言えるのです。だから死が将来にあるということではなく、いつも昨日の夜、死んできたということです。死ということを日々「経験」しているが、十分に受け取れていない。無量寿、南無阿弥陀仏に出遇って、智慧をいただく歩みにおいて、一日一日が念仏で区切られていくのです。そうすると今、今日しかないという時間を精一杯生きることに導かれるでしょう。そのことを通して、一日一日の大事さが感得されて、生き抜いていく勇みとなっていくのです。

G真実とは、真なる教えが私を空過流転を超えて実りある人生に導くもの(真なるものが実になった)
 「人間に生まれてきた意義」は、私は、長年の仏法のお育ての頂きの中で、私の分別・理性・知性・科学的合理主義で見るものの見方のほうがより真理なのであろうか? 仏法の教えを通して、本当に自分の愚かさに気付いた、自覚の上で感得出来る「人間に生まれてきた意義」の方が真理であるのだろうか? どちらが私を豊かな人生に導いてくれるかが大切ではないでしょうか。「空過流転」ではなく「実りある人生」へ。真実とは、真なる教えが我が人生で実りある人生へと導いてくれるものであった、ということで「真実」と言えるのではないでしょうか。
 私は、仏さんが教えてくれている物語というものが、私においてはうなずけるのです。身体全体で納得できるのです。いや、そうあってくれなければ困るくらいです。かたじけなくも本願があってよかった。こういうお念仏の世界に出遇えることによって、私たちは「自の業識を内因として、父母の清血を外縁として因縁和合して私が人間として生まれさせて頂いた」という善導のうなずきに共鳴するのです。
 私たちは憶えてないが、「人間として生まれてきたい」といって生まれて来た。そして、今、このご縁を頂いて、迷いを超えるチャンスを頂いている。そのチャンスをものにせず、また流転を繰り返すか、このチャンスにお念仏に出遇って迷いを超える生を頂くか。それは面々の御はからいなりと親鸞聖人の言われた言葉が頷けるのです。私が二十二歳の時に細川先生に出遇って、浄土真宗のお育てを頂き、医療の現場で仕事をさせて頂きながら、「人間に生まれた」というのはこういうことなのかと、今感じるところをご紹介させて頂きました。
南無阿弥陀仏。

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